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エピローグ
「躰はもうよいのか?」
空念が皺深い面に穏やかな微笑をたたえて訊ねる。痩身をゆったりと椅子にあずける僧衣の肩に円窓よりそそぐ木漏れ日がゆれる。柘はシャツの上から左肩を撫で、
「もうすっかり。退院するのが遅過ぎたくらいですよ」
向かいの席で苦笑した。黒に近い濃紺の上着の下に三角布を下げて左腕を吊っているも、髪をととのえた端整なおもては明るい。幾分痩せて首回りが細くなったが、やつれた風ではない。空念に別れを告げた宵から二月が過ぎていた。
清安寺の午后の空気は澄みわたり、初冬の気配が漂っている。窓越しに見えるこんもり茂った茶梅(山茶花)の赤い花々が、胸の痛みをともなう過ぎた悪夢を彷佛させたが、柘の心は引き戻されることはなかった。
「陶洵はかつて、わしの弟子じゃった。だが奴は技に溺れ、拳の心を理解せず、悪魔に魂を売り渡した。張栄巣のもとで暗殺を請け負っていると知ったとき、わしは奴を破門した。二十年も前のことじゃ」
空念が長い溜息を落し、重い口を開きだす。柘は黙って耳を傾けた。
「緑の母親は、露西亜人の美しい娘じゃった。わしの前に飛び出して来た時はまだほんの子どもで、よほど恐ろしい目に遭うたのか、口が利けなくなっていた。派手な姿から妓楼から逃げてきたのだとすぐに分かった。義和団の動乱で親を亡くした異国の孤児らが妓楼へ売られるのは、その辺りでは知れたことじゃった。追ってきた地棍どもから助けてやったものの、どうしてよいやら考えあぐねていると、娘がわしの背中で寝てしもうてな。揺すってもしがみつくばかりで……これも仏縁であろうと、おのが屋敷へ連れて帰ったのじゃ」
空念がその時の情景を見えぬ眸子の奥に思い浮かべるように微笑み、一つ息をつく。
「屋敷と言うても田舎の荒屋でな。だが娘は、楽しそうに弟子たちの世話をするようになった。それから二年ほどは何事もなく過ぎた。話せはしなかったが、笑うことはできるようになった。そんな頃じゃ。破門した陶がふいに現われ、娘を攫ったのじゃ。わしは弟子たちにあとを任せ、陶を追って娘を捜した。だが捜し当てたときは既に、娘は張栄巣の子を産んで死んでおった。逃げられぬよう足の腱を切られ、阿片漬けにされて、惨い有様であったと……世話をしていたという女から聞いた。わしは娘の産んだ子を攫って逃げた。娘の面差しを継ぐあやつを、あの悪魔の屋敷に置き去りにはできなかった。張の指南役に納まっていた陶が追ってきたが、わしは奴の目を潰して逃れた。なれどその時、奴の息の根を止めなんだのが最大の誤り。帰り着いたときには、弟子たちは皆殺しにされ、山荘は燃え落ちていた。わしは緑を連れて、峨嵋山に入った。娘や弟子たちの供養をしながらあやつを育て、五年が過ぎた冬の朝じゃ。陶が再びあらわれ、ついに護りきれず……」
無念の思いを噛みしめるように、空念が息を詰める。柘の胸に、雪の朝、突如爆音が轟き、白い子犬の血で雪が赤く染まったという緑の夢の話が思い起こされた。
「眼は、そのとき?」
空念がうなずく。
「あやつがひょっこり現れたときは、息が止まるほど驚いた。だが戻って来たあやつは、罪の意識もなく人を殺める人格の片寄った人間になっていた。何もかも、わしの招いた因果なのじゃ」
空念が痩せた肩を落し、重い吐息をもらす。頭を垂れたその顔にはおのれを責め苛んできた深い苦悩が窺えた。かつて林宣と呼ばれた空念への復讐のために緑を育てた陶の怨念が、今も尚、最も残酷な形で年老いた肩にのしかかっている。普段の空惚けた風情から窺い知ることのできぬ秘められた哀しみの情と、それゆえ一層深いであろう緑への愛惜の情を柘は痛ましく感じた。
「ですが、和尚。緑は決して非情な人間ではない。人として一番大切なものをちゃんと持っている。陶の許に居ながらどうしてそれを持ち得たのか、不思議でなりませんでしたが、眠っている記憶の底に和尚との暮しが生きていたのでしょう。緑は貴方の許に帰ってきた。過ぎた日々は取り戻せなくても、明日を紡ぐことはできる。貴方は失ったわけではありませんよ」
柘がそう言うと、空念が顔を上げ、
「長生きはするもんじゃな。お前さんに慰めてもらえるとは思わなんだ」
うれしそうに笑った。
「それで、お前さんの気は済んだのか?」
「いいえ。結局、おれは何もできませんでした。それでも生きるべきだと。生きる価値があるか無いか、それを決めるのはおれじゃない。今日は、それを教えてくれた緑を迎えに来たのです」
柘は心を正して空念に向かった。
「人を救うということは、自分も救われることなのだと。和尚は言われましたね。この意を、おれは全く解っていなかった。それもそのはず、人との関わりをひたすら避けていたのですから。それでは何も見えず、何も聞こえず、生きているとは言えない。生きていない者がどんなに足掻こうと、生きている者を救えるはずがないのです」
噛みしめるように言葉を切った柘の心に、クリスとヴェーダの祝の夜がよみがえる。あの夜、クリスは救うつもりが救われている——そう言って幸せそうに笑ったのだ。
「人を愛することは己を愛することであり、誰かを愛するなら自分こそが生きねばならない。和尚は最初から見抜いていたのでしょうな。だから緑を差し向けた。違いますか?」
「それは買い被りというものじゃ。人と人の相性など、わしごときに解るはずなかろう」
「そうですか? おれはしてやられたと疑ってはいませんよ。緑は何処です? 全ては和尚の差し金だと睨んでいる」
恍けたふうな空念を見据えて、柘は腕を組む。福州路の公済病院で眼を醒ましたのは、蒋との勝負から二日経った夕暮れであった。しかし運び込んだという混血少年の姿はなく、換わりにどうして知ったのか、マダム・リーや常連客たちが取り囲んでおり、それから毎日、見張るがごとく女たちが枕元に付き添い、ついに緑の姿を見ることはなかったのだった。
「差し金とは人聞きの悪い。だが飛んで行こうとしたあやつを、止めたのはわしじゃ」
「なぜです?」
「あやつめ、お前さんを情人だとほざきおったぞ。それを承知か?」
「承知です」
「ならば問うが、男が男を情人にするなど、自然に逆らう背徳とは思わぬのか?」
「緑の性に対し、罪の意識を感じないと言えば嘘になります。されど情愛というものが、男女の間にのみ存在するわけではありますまい。それを背徳と呼ぶのだとしても、己の心に従うだけです」
そう言いつつ、我ながら変わったものだと柘は思ったが、心に迷いはなかった。あの炎の狭間で生死を分けたのは、蒋が死を、自分が生を見つめていたからではなかったか。そうであるなら生の先に見ていたのは、紛れもなく緑だった。宿命と言うと大げさな気もするが、そんなものを柘は感じるのだ。
一方、空念は恍けた表情を一変させ、厳しい面持ちでにこりともしない。〝緑〟と名付けて慈しみ、やっと手許に戻ってきた孫のような緑の情人が男では、そういう顔もしたくなるだろう。柘はそう察し、気の毒な気もしたけれど、致し方ないと腹を括って返答を待った。
「お前さんは非情ではないと言ったが、あやつは殺生しながらも無垢なのだ。それ故一層罪深い。その緑を背負っていく覚悟はあるか?」
「背負うつもりはありません。肩を並べて歩もうと思っているだけです。互いが互いを必要とするなら、負うのではなく、共生が成り立つとおれは思っているのです」
柘は素直な気持ちを口にした。空念の懸念に対して真摯に応えたつもりだが、空念は白い眉を寄せたまま表情を変えぬ。
「あやつはお前さんにとって、災いをもたらす魔物になるやも知れんのだぞ。無垢というのは狂気を孕み、身に付いてしまった悪習は容易に直るものではない。それでも尚、あやつを見捨てぬか?」
「嫁にくださいとでも言えば、安心されるので? だが緑は女性ではないし、物でもありません。年長としての責任は感じますが、彼はおれなんぞよりよほどしっかり者で、見捨てられるとしたら、むしろおれの方でしょう」
柘が微笑むと、空念が長い溜息をつき、自嘲の入り交じった哀しげな顔をした。
「わしは……お前さんに、厄介を背負わせようとしておるのじゃぞ。人は道に足を繋がれ、見栄や保身ゆえに己を保とうと努力する。だがあやつには、そんな枷などないのだ。わしはこれまで、あやつに一人で生きてゆくよう諭してきた。なれどあやつは、わしの言うことなど分かっておらん。それも当然のこと。あやつの眼には、誰も映っていなかったのだからな。わしはそんなあやつを哀れとも思い、それもまた宿業ゆえに仕方ないものと諦めておった。だが、お前さんが剣を返せと訪れた宵、ふと思うてしもうたのじゃ。己を顧みないお前さんと、他人を顧みないあやつと、うまく作用してくれたら——とな。願いはしたが、よもやこんなふうになってしまうとは思いも寄らぬことだった。誰も映さなかったあやつの眼が、情人という深い形で、お前さんを映してしまった。喜びの情を持たぬと思っていたあやつが、お前さんの情人になれて嬉しいと言いよった。それが自然に逆らう事だとて、なんとかしてやりたいと愚かにも思ってしまう。なれど、お前さんに済まなく思えて仕方ないんじゃ。なんの躊躇いも無くお前さんを情人と呼び、己が所有のごとく言い放つあやつを前にしたとき、わしは恐ろしゅうなった。あやつの眼には、もうお前さんしか映っておらん。この先、お前さんを想うゆえに、あやつが狂うたら、年老いた盲の力では、たとえ命を引き換えにしても、成敗することは叶わんだろう。それゆえ、お前さんの意志を確かめるまではとあやつを止めたのじゃ。しかも、あやつは張栄巣の実子じゃ。いつなんどき」
「いい加減諦めたらどうです。しつこい年寄は嫌われますぞ」
柘は太々しい口調で言ってやった。空念は呆気にとられたように、しばし口を開けていたが、
「わしは、お前さんの為に言うておるのじゃぞッ」
またしても眉を寄せる。
「何を言おうと無駄ですぞ。緑の居所を教えてくれるまで、梃子でも動きませんからな!」
柘は気合いを込めて言い返し、しばらく無言で睨み合う。空念がふいに破顔して、顰めっ面を晴れやかな笑顔に変えた。
「お許しと、受けとりますぞ」
「許さぬと言うたとて、聞くようなお前さんではなかろうが。わしの負けじゃ、好きにしろ!」
「では、緑は何処に?」
矢継ぎ早に訊ねるや、空念が恍けた様子で椅子から立ち上がる。
「そうそう院子の菊が美しいらしいぞ。お前さんもたまには野の花でも愛でるといい」
「和尚。往生際が悪すぎますぞ」
「ぼやくな。ついでにもう少し意地の悪い爺に付き合え」
愉快げに笑いつつ、空念が杖を片手に居間から出ていった。
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