反撃の狼煙

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第2話 籠の鳥  カミルに手を引かれ、やってきたのは白い壁に翡翠が散りばめられた離宮だ。入口で先導の侍女が礼を取り道を譲る。  カミルはそのまま扉を開けた。  部屋に一歩踏み込んだ途端、白檀の香りが漂う。奥にはカミルの背中越しに大きな寝台が見えた。白檀は崔淫効果のある香だ。ここはつまり初夜の(しとね)という事だろう。  韵華(ユンファ)も一端の公主なのだから知識はある。しかし、死を覚悟していた韵華(ユンファ)には全くと言っていいほど現実味が無い。子を成す事無く逝くのだと思っていた。それなのに、訳も分からないまま、叶わなかったはずの未来が目の前にある。  韵華(ユンファ)はこの後の行為を想像し、瞬く間に紅潮した。思わず引き返そうとする腕を強引に引かれる。 「ちょっと、離して!」  抗議の声を上げると、カミルはにやりと笑った。それは意地悪で楽しげな顔だ。 「やっと喋ったな。人形かと思ったが、ちゃんと血の通った人間らしい。安心した。可愛い声だ」  そう言いながらも寝台に近づいていく。韵華(ユンファ)は反抗したが、力及ばず引きずられていく。  そのまま寝台に投げ出された。  はずみで衣の裾が捲れ、細い素足が晒け出される。峰嵩(ホウシュウ)ではみだりに素肌を晒すのは下品だとされ、重い衣を幾重にも重ねるのだ。  ただでさえ異国の花嫁衣裳は布地が少ないのに、素肌を初対面の男に見られるなど恥でしかない。慌てて裾を正すとカミルは声を上げてわらった。 「そんなに慌てなくても、子供に手は出さないよ。お前、まだ十三だそうじゃないか。子供を花嫁に差し出すなんて、峰嵩(ホウシュウ)では普通なのか?」  韵華(ユンファ)はその言葉にカッとなり声を荒らげる。 「子供じゃないわ! ︎︎もう笄礼(けいれい)も済ませた立派な大人よ!」  笄礼とは峰嵩(ホウシュウ)に於ける女子の成人の義だ。髪を結い上げ、初めて(こうがい)を刺す。本来は十五で行う儀式だが、韵華(ユンファ)はこの婚姻が決まった時に済ませていた。 「そりゃ、確かに他の人より早いけど……でも前例が無い訳じゃないわ」  韵華(ユンファ)は帝室の一員だ。峰嵩(ホウシュウ)の帝室では往々にして若い内に嫁ぐ事がある。峰嵩(ホウシュウ)での女性の地位は低く、多くの場合、臣下に褒美として下賜されるため、初潮が訪れた公主から嫁いでいく。そのため二十も三十も歳上の男に娶られる事も珍しくない。韵華(ユンファ)は恵まれている方なのだ。 「私は……」  韵華(ユンファ)も自分の価値を分かっていた。戦の火種になる事。そのはずだったのに。  それっきり黙り、俯く韵華(ユンファ)の顔を、寝台に上がり隣に胡座(あぐら)をかいたカミルが覗き込む。 「死ぬ予定が外れて不服か?」  核心をつくカミルの言葉に韵華(ユンファ)の肩が跳ねる。これは極秘で進めてきた計画なのに、カミルには知られてしまっているのか。  どくどくと心臓が煩く鳴る。目論見がバレてしまっては韵華(ユンファ)の価値が一気に下がってしまう。人質にもならない韵華(ユンファ)はセーベルハンザにとって利は無く、生きて第三王子の妻となっても峰嵩(ホウシュウ)の利にはならない。戦が目的なのだから親交など意味は無いのだ。  負け戦になろうとも、峰嵩(ホウシュウ)に大義名分を与えるのが韵華(ユンファ)が死ぬ意味だった。  ただ死ぬだけでは駄目なのだ。自死を選んでも、セーベルハンザを討つ理由にはならない。どころか、逆にセーベルハンザに有利になる可能性が高い。  そうなってしまったら、峰嵩(ホウシュウ)など一溜りもないだろう。どうするべきなのか判断できず、韵華(ユンファ)は青い顔でカタカタと震える。  そんな韵華(ユンファ)を、カミルはそっと抱きしめた。 「俺も本当は死ぬはずだったんだ。考える事はどっちも同じ。父は俺を殺して峰嵩(ホウシュウ)に戦を仕掛ける気でいた」  離れようと暴れた韵華(ユンファ)だが、辛そうに絞り出される声が胸に刺さる。  まさかセーベルハンザも戦をする気でいたなんて思いもよらなかった。国力に差があるのだから、そんな小細工を弄する必要は無いように思うが、やはり必要なのは大義名分。侵略は諸外国の反感を買いやすいものだ。  第三王子など予備の予備。第八公主という立場の韵華(ユンファ)にもそれは理解できた。  王や帝は女を囲うのも共通するところだろう。峰嵩(ホウシュウ)に後宮があるように、セーベルハンザにはハレムがあった。尊き血を残すための悪しき因習だ。 「俺の母はハレムの第七夫人で身分も低い。弟達の方が余程王位に近いよ。だからこの婚姻には俺が選ばれた。死んでも惜しくない俺が」  (すが)るようにきつく韵華(ユンファ)を抱きしめるカミルの声は泣いているように聞こえた。  韵華(ユンファ)には、その気持ちが痛いほど分かる。国のためと遠い異国に一人で嫁いできたが、死ぬのは当たり前だが怖い。韵華(ユンファ)の母も下級妃嬪(ひひん)だ。女官として後宮に勤め父帝に見初められた。  後宮での扱いも酷いものだ。韵華(ユンファ)が産まれた後、帝の寵愛は他に移った。寵を受けられない妃は、小さな離宮で侍女も少なく、ひっそりと暮らすしかない。  おそらくハレムも似たようなものだろう。女が一人の男を巡って争う、醜い場所。しかもその目的は愛では無い、権力だ。国の女の頂点に君臨し、金を湯水のように使う。  そして運良く男児を産めば、次の目的は玉座に向かうのだ。しかし、それが女児であれば寵はあっさりと失われる。特に秀でた美しさを持つ女であれば、寵は注がれ続けるかもしれない。だが地位を得た者との扱いの差はやはり大きい。  表舞台に立つために、人々の羨望を浴びるために、女達は争うのだ。  韵華(ユンファ)の母は、その戦いに敗れ、存在さえ忘れ去られていた。今回の話が持ち上がって、初めて韵華(ユンファ)の存在を認知した父帝は、これ幸いとセーベルハンザへ送り出したのだ。  失っても、なんの損失も無い韵華(ユンファ)を。
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