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トロッコ問題とは――。 イギリスの哲学者であるフィリッパ·フットが提案した倫理的な思考実験だ。 その内容は、レールを走っていたトロッコが止まらなくなり、その先に五人の作業員が立っていて、このまま列車が進行すると彼らが()かれてしまう。 しかし偶然にもあなたは、トロッコの進行を切り替えるレバーを操作できる位置にいた。 トロッコの進行方向を変えれば、五人の作業員が助かる。 だが、もう一方の軌道には一人の作業員が立っており、レバーを操作すると今度は彼が轢かれてしまう。 五人を救うために一人を犠牲にして良いのか? それともできる限り大勢の人間を救うべきか? さて、あなたはどちらの選択をする? ――と、いうのがトロッコ問題である。 この問題は、哲学、倫理学の分野で議論され、道徳的なジレンマや選択について考えるための一例として使用される。 個人の選択は最大限の幸福をもたらすか、最小限の悲劇をもたらすか、という難しい道徳的問題を提起しているのだ。 近年では自動車の自動運転に使われているAIにこの問題を考えさせるなど、わりとポピュラーな思考実験の一つとして覚えている者も多い。 さらにいえば、数年前に日本でも話題になったマイケル·サンデルの影響も、トロッコ問題を知る人間が増えた要因だろう。 僕は、このトロッコ問題が倫理における思考実験だと分かっていても、どちらの結果も後味が悪いため、何か別の回答がほしくなってしまうタイプだ。 いや、違う。 自分で強引に、別れた妻との問題を重ねてしまうせいだ。 二者択一ではなく、第三の選択はなかったのかと……。 僕の妻は浮気をしていた。 夫と娘がいる立場で、長年の間ずっと別の男に手を出していた。 個人的にだが、昔に比べると、世の中が女性の浮気を(あお)っているように見える。 おそらくは妻の好きな映画やドラマから見るに、彼女も煽られて憧れを抱いたのだろう。 エンターテイメントにリアリティは必要だが、家族を裏切る行為を奨励(しょうれい)するのは酷いと思わざる得ない。 「ただいまー。パパ、いる? いま帰ったよ」 玄関から元気な声が聞こえてきた。 娘が学校から帰ってきたのだ。 その声を聞いた途端、僕の傍で丸まっていた二匹の子猫が、玄関へとトコトコ歩き出していた。 「シュレーとディンガーもただいま。よしよし、元気してた?」 撫でられた二匹の子猫は、それぞれ娘の頭と肩に飛び乗った。 どういうわけなのか、そこが二匹の子猫のお気に入りの場所のようで、家にいるときのほとんどを娘の頭と肩で過ごしている。 ちなみに猫の名前シュレーとディンガーは、娘が僕の本棚から見つけた物理学の本からとって付けた。 それは有名な“シュレーディンガーの猫”という猫を使った思考実験で、オーストリアの物理学者エルヴィン·シュレーディンガーが発表した、物理学的実在の量子力学的記述が不完全であると説明するために用いたものだ。 もちろん娘はそんな小難しいことは知らない。 ただ響きが気に入ったという理由で、シュレーとディンガーと付けた。 僕が娘から聞いた話によると、学校帰りの道で、二匹の子猫が鉄の箱に入っているのを見つけたのが出会いだったそうだ。 そのとき僕は娘に言った。 鉄の箱に入れられているなんて、まるでシュレーディンガーみたいだなと。 娘がその名を覚えていたのかはわからないが、ともかくうちにいる拾ってきた二匹の子猫の名は、シュレーディンガーが元ネタである。 仕事は転職してからは完全にリモートワークなので、猫の面倒は僕が見れる。 だがあまり僕には懐いてはいないようで、娘が帰って来るまでは、ほぼ二匹とも寝たきり状態だ。 一応いつも傍にいるので嫌われているわけではないのだろうが……。 餌をやるとき以外、何も反応がないというのは寂しいものだった。 「もう、おかえりなさいくらい言ってよぉ」 頭と肩に子猫を乗せながら、頬をふくらませて不機嫌そうに言う娘。 この子は母の浮気を知ったとき、特に気にしてはいないようだった。 まだそういうことがわかりづらい年齢というのもあったのだろう。 いつも通りに受け答えしていた。 さすがに離婚したときはショックを受けていたようだったが、どういうわけか娘は妻ではなく僕と暮らすことを選んだ。 なぜ娘が妻ではなく僕を選んだのか? その理由は今でもわからない。 今でこそ娘との会話が増えたが、前はろくに話もしたことがなかったし、何より僕は娘には嫌われていると思っていた。 「そうだ、ちょっと聞いてよパパ!」 急に大声を出したので、娘の頭と肩に乗っていた二匹がビクッと驚いていた。 娘はそんなシュレーとディンガーのことを気にせずに、言葉を続けた。 「あたしね! パパが前に言ってたトロッコ問題ね! 今日学校で解決する方法を発見しちゃった!」
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