1.夜の海

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1.夜の海

姫姫(ひめき)様、もう少しの我慢ですぞ」  吉野(よしの)に声をかけられて、(わたくし)は窓の外に向けていた視線を船室内に戻した。 「吉野、本当に?」  もう少しの我慢、もう少しの我慢、もう少しの我慢。この船の中で何度言われたことだろう。 「ええ。あともう少しで東雲氏領(しののめうじりょう)の本港に到着すると船長が」  私の乳母である吉野が、安心してくだされと私の手を握りしめる。 「本当に、もう少しの我慢なのかしら?」  私は吉野から視線を逸らし、再び窓の外夜の中で泡立つ波に目をやった。外は月も出ていない暗闇だから、もちろん波頭なんて見えるはずもないのだけれど。  波に気を引かれているのだと自分に言い聞かせて、吉野から顔を背ける。ずっと燻っていた疑問がぽろりと唇から零れ落ちた。 「東雲氏は、私を受け入れるの?」  龍玉湖(りゅうぎょくこ)……蘆野國(あしのこく)中央の巨大湖を横断するというのが、どれほど危険なサイコロ遊びなのかを、吉野をはじめとする側仕えの面々は私に隠していたかったみたいだけれど……。  吉野の息子が用意した船はかなり小さく、船室にいても船の下人の声は聞こえてくる。  彼らの会話を聞いていれば、お話しの中に出て来るようなな冒険をしているのは間違いないようだった。  それでも、他に道はない、私には。  私に仕えてくれている者たちはどうなのかしら?  私は再び船室内に視線を戻した。  この船には、おそろしく貧しい簡素な船室が一つあるきりで、それも乳母の吉野と侍女が五人、そして私を含めてたったの七人でいっぱいになってしまう。  彼女らの縁者の男たちは、船室に入ることもできず、波のかかる甲板にいるという。  秋半ばなのだからしかたないけれど、そうはいっても今夜の空気は特段に冷たい。室内でも火が欲しいぐらいなのに、屋根もない外はどれほど寒いことだろう。  正式な東宮だからこそ、それが分かっているからこそ、彼女らは私に仕えてくれる。  そう、私は正当な東宮よ。そのはずなのに、なのになぜ私が宮から追放されたかのように、こんな惨めに逃げ惑わなければならないのかしら?  なぜ、こんなことになってしまったの? 東雲氏の領池(りょうち)に行ったとして、私は(みや)に、きちんと正しい場所に、戻れるのかしら?
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