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2.姫姫
私は蘆野國の帝が名乗る名、姫姫を頂く。
本来なら、父帝の跡を継いで半年後には玉座に就くはずの東宮。だけど、皇后だった母に父帝の寵愛は無く、私は宮の中で半ば影のようにひっそりと育てられていた。
でも、父帝がご存命で有らせられた頃はまだよかった。いつもはただの影でも、公式行事などでは私はきちんと東宮として扱われたし、着る物も食べる物も、御殿や、学問、全て不自由しなかった。だけれど、一ヶ月前父帝が亡くなると……。
「樫宮様。ここは東宮殿ですぞ! 誰のお許しがあって参られたか!!」
廊下の向こうが騒がしくなって、私は読んでいた本から顔を上げた。吉野がいつになくきつい声音で対応しているのは?
「桃宮様は?」
その声はお姉様? 首を傾げていると大勢の足音がして。
「何用ですか!?」
「あら、姉が妹に会いに来てはいけない?」
その足音の先頭で、笑みを含んだ声がした。
「ただご挨拶に来られただけではないでしょう! お帰りください!!」
吉野は頑張ってるみたいだけど、吉野では樫宮お姉様の相手にならない、でしょうね。
「桃宮様。いらっしゃる?」
バサッと帳が開かれた。
「樫宮お姉様。ごきげんよう」
影である私の陽、樫宮桃桃お姉様が笑った。冷ややかとも上機嫌とも取れそうなお表情。
その笑みを浮かべた瞳が私を見下ろす。そして。
「桃宮様。この東宮殿、私にくださいな」
ずいっと私の私室に侵入したお姉様は、歌うように軽々と要求を突きつける。
「ぶ、無礼な!!」
私の侍女たちが騒めく。
「お姉様は東宮になられたいので?」
私は立ち上がった。けれど、お姉様は男子並みに背が高い。立ち上がったところで、見下だされているのには変わりなかった。
「お姉様にその資格があるとでもおっしゃられるのですか?」
精一杯胸を張るけれど、その程度でお姉様の余裕を崩すことはできなかった。
「ええ。あるわ。私こそが東宮に相応しい、そうでしょ? 皆」
さっとお姉様が手を挙げると、私の部屋のなかに具足をつけた男たちが無遠慮に雪崩れ込んだ。武士だ。
「な、何事です!? お姉様!?」
武士たちは有無を言わさず、乱暴に私と侍女たちを拘束し、部屋の中から引き摺り出した。鎧の肩に担がれながら樫宮お姉様を見ると、お姉様は笑っていた。
「東宮の地位は譲っていただくわ。桃宮、あなたはあなたに相応しい御殿に移るのね」
そんなこと許されないはずよ! お姉様の言っていることが信じられなかった。
なんとか反論しようとした私に、侍の一人が何か嗅がせた。甘い匂いがしたと思った瞬間、私は気を失ってしまった。
「……姫様。姫姫様。しっかりなさってください。姫様!」
呼ばれて目を開けた。
「吉野。ここは……?」
雨戸が閉め切られているのか、私たちがいる部屋の中は真っ暗で、数個の蝋燭の明かりだけが揺らめいていた。
「宮の中でも長らく見捨てられていた、椿御殿のようです」
吉野の声が震えていた。侍女たちも心細そうに身を寄せ合っていて。
「椿御殿……不吉です……吉野様……」
その一人が不安そうに小声で呟いた。椿といえば斬首を連想させる。侍女たちが不安に思うのも無理はなかった。
「お姉様は私を追い落とした」
今の状況はそれだけしか考えられなかった。
なぜ? どうして? そんなこと許されるはずないでしょう?
誰か、この状況を説明できる者がいるはずよ。納得のいく答えがどこかに……。
答えを探して、私の疑問の答えを探して、私は部屋の中を見渡す。でも目に入ったのは恐ろしく数の減った侍女、怒りにか悲しみにか顔を歪ませる吉野だけだった。
私の問いに答えられる者はいない。そのことが信じられなかった。どうして東宮の問いに誰も答えられないの!? どうして? そして。
「宮を離れましょう! 姫様!! 椿御殿をあてがわれたのは樫宮の警告です。このまま宮に止まってはお命すら危うい!」
吉野の言葉に、私は戸惑った。
「宮を出て、行くところなどあるの?」
私は宮の中しか知らない。外の世界になど興味もなかった。けれど。
「乳母に心当たりがございますよ。もう準備も息子に。全てわしらにお任せくだされ」
そのまま話はあれよあれよという間に進み、その日の夜、闇に紛れて私は宮を出た。
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