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30.蔦宮
「蔦宮おに……いえ、お姉様。私は……帝に、なるのでしょうか? あれだけ、偽の東宮だと言われたのに、その疑いを晴らすことが……私に、私の存在についた傷を消すことが……」
私は気が狂った婢女から、真の東宮に戻った。そして元の東宮御殿に帰れたのだ。でも、吉野は戻れなかった。色秤殿での全てが終わった後、吉野は魂が抜けた様になってしまって、話しかけても返事をすることもなく、虚空の一点を見つめるだけの生き人形に成り果てたのだ。
これから、私は誰を頼れば? そこまで考えて、可笑しくなった。
ほんの少し前に、自分が何も考えてなかった、周りの言うなりだったと思い知ったばかりでしょう? それなのにまだ、周りの支えを求めるの?
それに、頼ったところで、本心から私の味方になるものがいるとでも?
でも、どうすればいいのかしら? 周りから東宮らしいと、帝はこうであるべきと、言いきかされてきた以外の行動を私は知らない。
……どうすれば、帝として正しく振る舞える? 不安で不安で仕方ない。
樫宮……お兄様の最後の呪いを消し去るぐらいの、桃宮は真の帝だと讃えられるぐらいの、そんな帝に決して私はなれない。罪人として色秤殿に引き出された帝など、他に誰がいるの?
あそこにいた者たちは、私を本心から帝と認めたわけではない。ただ、都合が良かったから。
「桃宮」
蔦宮お姉様が、御簾を上げて入って来る。そうして私の近くまで来た。青年貴族の装いをしている以上、お姉様の行為は無礼だとも取られそうだけど、ここには咎める吉野も侍女もいない。
和樹丸はどうして、蔦宮……お姉様が……私と面会することを許したのでしょうか? そんな疑問が浮かぶけど、今、私が頼れるのは蔦宮お姉様しか……また、私は人に頼ろうと!
「和樹丸の力は分かっているでしょう? あの者の後ろ盾なくば、あなたは帝にはなれないし、あの者の許しなくば、帝から降りることもできない」
スッと蔦宮お姉様は私に手を伸ばし、私の頬に触れる寸前で止めた。
「お姉様?」
「確かに、あの者はあなたの後ろ盾として力を得た。けれど、あの者は別に正統な帝・姫姫を必要ともしていない」
そうして、静かに語られる言葉は、ゾッとするものだった。
「色秤殿で理解したわよね? 貴族にも神官にも名主にも、そして和樹丸にも、必要なのは正統と崇められる帝ではなくて、自分たちの思い通りに操れる、そんな帝だということを」
「お姉様は、それをお認めになるのですか!? 帝こそが、この国を治める唯一の!」
私の言葉に、呆れたようにお姉様は笑った。
「そんな建前、もう百年も昔に崩れているわよ」
「そんな! だって!!」
認められなくって、取り乱した私に。
「そのことを誰もあなたに教えなかった? それはそう、そちらの方が都合がいいから」
突きつけられた言葉に、呼吸が止まった。
「あなたがちゃんと、お父様やおばあ様の政を見ていたら、あなたがこだわる通り、古例の裏の意味を読んでいたらそんなことはあっさり分かったはずよ?」
「お姉様も……樫宮お兄様もそれが読めたから」
息を吐いてぎゅっと拳を握りしめるしかなかった。
「お兄様は帝として、権力を得ようとしたのでしょうね。最初は芝宮家の操り人形でしかなかったのかもしれない。でも、お兄様が……ご自身の性を偽っても、それでも、帝になりたかったのは、やりたいことがあったから」
「私は、私には……そんなものはないのです! ただ帝になることが、当たり前だと思っていて、帝の真のその意味を何も考えず!」
「だから、和樹丸はあなたを使ったのよ」
蔦宮お姉様は、呆れたように私を見ていた。
「私は! 私はこれから帝としてどうすれば!! 蔦宮お姉様。どうか、どうか私を助けてください。これから、私のそばにいて和樹丸から帝の力を取り返すご助力をっ!」
涙が溢れる。こうなってもなお、私は誰かに縋るしかない。だけど、私を見下ろす蔦宮お姉様の顔は、いつかの樫宮お兄様の表情とそっくり同じだった。
呆れて、嘲って、怒りさえ感じている。
「なぜそのようなこと、私がしなければならないの?」
そして、その冷徹な問いに私もまたいつかと同じように、全く答えられない。
「帝の力は、国の……っ」
お姉様を説得するのに必要なのに。でも、それから先の台詞をどれだけ考えても、私の脳裏にはなんの言葉も浮かばなかった。
「和樹丸は為政者としての器がある。それは否定しようもない。和樹丸はまぁ……この後、多少の混乱はあっても、この国をうまく治めるでしょう。自分の地位も帝も全ての者を上手に使って。私は別にそれを邪魔するつもりはないの」
「だってお姉様も宮なのでしょう? 皇室の……帝の力を失わさせても、それでもいいとお思いなのですか!?」
必死にそう言い募るしかない。お姉様だって宮として生きてきたはずだって。でも。
「帝が何なの?」
蔦宮お姉様は呆れ果てたように、肩をすくめただけだった。
「え?」
「帝が、それが何なの? この百年、帝はただ何者かの権力に……お墨付きを与えることしかできてこなかった。すでに帝の力はハリボテでしかない」
「それが真実でも。でも、それでも。だって……」
「だから、帝が消えてもこの国の行く末には全く影響がない」
心からそう信じていると、言い切られて。
「でも帝が消えれば、お姉様だって宮の地位を失って」
自分の言葉が、虚しく響いた。
「ただそれだけのことよ。むしろせいせいするかもね」
「お姉様は宮には戻られないないのですか? これからどうやって生きていかれるおつもりなのです?」
宮なのだから、お姉様だって私と同じ世界しか知らないはず。そう思ったけれど。
「復讐は終わったから、商人に混じって国中を旅して回るつもりよ。私は蘆野國の全てが知りたいから。
和樹丸もそうしろと言ってるし」
お姉様は楽しそうに笑っただけだった。
「和樹丸が……」
和樹丸は、お姉様を認めているのだとその言葉で分かった。お姉様の何かを信用して、お姉様の望みを叶えようとしているのだと。
「もし、お兄様が……私を放逐しなかったら。もし、もう少し何か状況が違っていたら……。お兄様と私と和樹丸と鏑屋は本気で手が組めていたかもね」
そうして、蔦宮お姉様はどこか遠くを見ていた。
もしかしたらあり得たかもしれない未来を、思い描いていらっしゃるのだろうか?
私にはそんな『もしも』は認められなかったけれど。だって、そうしたら私は本当に廃位されていただろう。蔦宮お姉様も、正統な東宮としての私を認めてはいらっしゃらなかったのだ。
いいえ。これまでの帝たちをというべきなんだろうか?
正統性にこだわるしかできなかった帝たちに、呆れて、嘲って、怒って。蔦宮お姉様も、樫宮お兄様と同じものを見ていたの?
「お姉様は……和樹丸を認めると?」
呆然とした私の問いかけに、蔦宮お姉様はどこか彼方から私に視線を戻した。
「ええ。それだけのものを私は和樹丸に見た。この国を治めるものとしての力を。お兄様と同じ意志をね」
そうして最後に、蔦宮お姉様は冷たい表情を浮かべ。
「何も考えない帝でありなさい、桃宮。あなたが生き残るにはそれしかない。ドジを踏んで、私に傀儡でしかない帝の地位を回してくるなんて、許さないから」
私に同情など一切見せず、そう言い捨てると御簾を出て帰っていった。
もしかしたら唯一和樹丸に対抗できるかもしれない人も、私を見捨てたのだ。それが、私の価値を如実に表していた。
何の価値もない私は……覚悟を決めなけければならないのでしょう。たった一人で。
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