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荒梨音楽大学には生ける都市伝説が存在する。
鈍色の着流しを纏い、能楽で使用する木彫りの翁の面をかぶった長身の男。年齢は不詳。髪はところどころ白髪混じり。全体的に影にも見間違う薄灰色でありながら、影と呼ぶにはあまりにも強烈な存在感を放ちながら構内を闊歩している。
荒梨音楽大学音楽文化教育学科音楽療法専攻四年、名をば長峰梓麻となむ言いける。
地元の小学生に混じりて逢魔が時の河川敷に出没しつつ、よろずのJ-popあるいはアニメソングを津軽三味線を用いて踊り弾く姿が、うちの学生や近所のひとのあいだでもしばしば目撃されているんだとか……なんとか。
事実であれば都市伝説というよりむしろ不審者である。
人前で仮面を外すことはなく、いままで素顔を見たことがある者はいないらしい。一説には、素顔を見た者は死ぬと言われている。
わたしがそのいかにも怪しい人物と対面したのは、入学して一ヶ月半ほど経ったある日。ゴールデンウィークが明けてしばらく経ってのことだった。
*
「頭の中で同じ曲が繰り返し流れ続ける……か。だれにでも起こりうる、よくある現象だねぇ」
いまわたしの目の前では、翁の面がしゃべっている。その声がお面の内側で、硬いものに跳ね返っているような独特の響き方をする。
G棟に足を踏み入れたのは入学以来はじめてのことだった。ゼミ室と楽器準備室が並ぶこの区画は、普段一年生にとっては用がないのだ。その最たる奥のややほこりっぽい空き教室で、わたしたちは生ける都市伝説と机を挟んで向かい合っている。
「それは通称、『イヤーワーム』と呼ばれる現象だ。またの名を『ディラン現象』とも言う。ボブ・ディランの『風に吹かれて』という楽曲が、このイヤーワームに陥りやすい特徴を持つと言われていてね、それに由来するのだけど」
パイプ椅子にもたれ足を組み、鷹揚な調子でうなずく灰色の男からは、奇々怪々な都市伝説の空気よりも、胡散臭い変人の匂いが漂っていた。
懐疑、警戒、好奇心の入り混じったわたしの眼差しには気づかないようすで、彼は質問を続ける。
「曲は何度も繰り返し聴いた?」
「いいえ」
と、わたしのとなりでちいさく答える声の主は、坂下美冬。彼女こそが『頭の中で繰り返し鳴り続ける音楽』に悩まされている張本人だ。わたしはその美冬ちゃんの付き添いでとなりに座っている。内気で人見知りな美冬ちゃんを、こんな怪しい都市伝説野郎にひとりきりで会わせるわけにはいかないから。
「その旋律を耳にしたのはどこ?」
「E棟の練習室です」
E棟の二階には二十五の練習室が並んでいる。ピアノが一から二台設置されていて、本学の生徒ならだれでも利用可能だ。一年生が講義でよく使う教室が集まっているから、必然的に一年生はE棟の練習室を使うことが多い。
「弾いていたのはだれ?」
「わかりません。たしかめるのも……失礼かと思って」
そう答える美冬ちゃんの考えはもっともだった。使用中の練習室を覗き見するのはマナーに反する。だれが言い出したわけでもない暗黙の了解。自分がされたら嫌だからだ。それに覗いたとして、中にいるのが知っているひとである可能性はそんなに高くない。なにせわたしたちはこの荒梨音楽大学に入学してまだ一ヶ月半なのだ。
「じゃそれほど傾聴してたわけじゃないんだね?」
「ええ……まあ」
美冬ちゃんは膝の上に両拳を置いて、しかられた子どもみたいにうつむいていた。もともと人間に対して壁を作りがちな彼女だけれど、いまは人間かどうかすら怪しい能面男を相手にして、よりいっそう声に怯えと緊張がにじんでいる。
「まあまあ梓麻くん、もうちょいお手柔らかに。ね。ふたりとも引いてるわよ」
横から、やさしくたしなめる声があった。わたしたちよりいくらかリラックスした姿勢で、脇の黒いソファに腰掛けているのは、四年生の矢竹羽衣香先輩だ。わたしたちと同じ学生寮に住まうこの先輩は、美冬ちゃんの悩みを聞くなり会わせたいひとがいると言って、今日この空き教室に連れてきてくれた。で、その『会わせたいひと』というのが、翁の彼だったというわけである。
「……失敬。興味が先走ってしまった」
翁は白髪混じりのぼさぼさ頭をぐしゃっとかくと、ひと呼吸おいてから、ほんの気持ちだけ声のトーンとテンポを落とした。
「で、それはどんな曲なのかな? 初めて聴いた曲? それとも前から知っていた?」
遅かれ早かれその質問が飛んでくることは予想していた。わたしは美冬ちゃんの代わりに口を開いた。
「覚えやすいきれいなメロディです。でもどことなく切なくて――」
「きみもその曲を聴いてたの?」
それまで美冬ちゃんを注視していた翁面の顔が、すっとこちらを向いた。目が合ったように感じて、なぜだかすこし背筋がぞわりとする。
「あ、いいえ。そういうわけでは……」
「ふーん」
訝るような相槌に、わたしはあわてて付け加える。
「でも美冬ちゃんが楽譜に書き起こしてくれたので、すこしだけさらいました」
すばやくトートバッグから、クリアファイルを取り出して渡す。このファイルは小学校のときはじめて出たコンクールの記念品でもらったもので、もうなんの柄かわからないぐらいハゲハゲのボロボロでお恥ずかしい限りだけれど、まだ底は抜けていないから使っている。
ファイルに挟んでいたのは、リングノートから切り離された五線用紙の切れ端だった。
美冬ちゃんは、頭の中で繰り返し流れる音をひとつひとつつかまえて譜面に書き起こしていた。ちょうど五線ノート一ページ分におさまる。即興的な曲。とはいえドビュッシーのアラベスクぐらいの難易度はある。短いながられっきとしたピアノ小品だった。
能面が楽譜に目を落としていた時間は、わりに長かったと思う。
表情が見えないのがまどろっこしかった。いったいどういう気持ちで音を読んでいるのか、これではまったくわからない。
無言空間にしびれを切らしたわたしが、声をかけようとしたまさにそのとき、つと面が持ち上がった。
「これ一回、弾いてみてくれるかな」
と言って、部屋のかたすみにぽつりと置かれた年季の入ったアップライトピアノを指し示す。
「え……」
この曲に苦しめられている美冬ちゃん本人の前で、それはいささか無神経な申し立てだった。ちりっと胸がささくれ立つ。
戸惑いを隠せずとなりの横顔を見遣る。するとわたしの視線に気づいた美冬ちゃんは、
「大丈夫、弾いて」
と気丈に微笑んだ。
「わたしも聴きたいな」
と羽衣香さんもにこっとする。羽衣香さんがそう言うなら……。ささくれた心は凪いだ。
全員の興味がわたしの演奏に向いている。
いま自分にできることは、この謎の曲を弾くことだけみたいだ。
静寂に見守られながら、わたしはアップライトピアノへと向かった。耳をすますと遠くで楽器の音がする。ピアノ、トランペット、バイオリン。音大では完全に無音である状態というのはほぼない。
表面にほこりの層が薄く積もったアップライトピアノの蓋を、キシキシいわせながら押し開けると――わたしはそろりと鍵盤に手を這わせ、息を吸った。
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