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2日目 蜘蛛
今宵の獲物は驚くほどすんなり手に入ったと、アラクネは引きずっていた糸の塊を振り返ってほくそ笑んだ。袋状になっている糸には少女が一人入っている。久しぶりの人間、それも若い女だ。
アラクネは洞穴に潜み、長い間旅人を捕まえては食べてきた。上半身だけ見れば女のアラクネは、蜘蛛の下半身を隠して男を誘う。そのやり方で長年上手くいっていた狩りだったが、いつの頃からかこの付近を通る旅人も少なくなってきた。
そんな時、夜道を出歩く若い女がいたのだ。わざわざ誘い文句を考えなくてもよくなったと、アラクネは喜んでその女に飛びかかった。
意気揚々と自分の洞穴へ戻り、アラクネは糸の袋をあける。金の髪をした若い女は、驚いた顔でアラクネを見上げた。
「ここは?」
「私の巣よ、可愛いお嬢さん。蜘蛛の巣を見たことないのかしら?」
まぁ、今から食べられるのなら何を見たところで関係ないでしょうけど。アラクネが冷ややかに笑っても少女は目を丸くしているだけだ。
アラクネは怪訝な顔をした。この娘、どうにも自分を恐れていない。というより見ていない。
「何を見ているの?」
アラクネの問いに少女は答えない。少女の視線の先を目で追うと、洞穴の壁にかけてあるタペストリーが目に入った。その昔アラクネが織ったタペストリーだった。
「とってもきれいなタペストリーだわ」
「……褒めてくれてどうもありがとう。でも嬉しくない」
「え?あれは貴方が織ったの?」
アラクネは苦々しく答えた。「だったら何だって言うの?そうよ。こんな化物にされるきっかけになったのだけどね」
かつてアラクネは女神アテナより織物を上手く織れると豪語し、それを証明した。しかし怒れるアテナはアラクネを蜘蛛の姿に変えてしまった。
その時織った、神たちの不実を嘲笑ったタペストリーを見て、少女はきれいと言ったのだ。アラクネはせせら嗤った。
「どんなに素晴らしくても神が認めなければ全ては水の泡。馬鹿馬鹿しいのよ、何もかも」
「……私は羨ましいな。貴方みたいな才能も何もないから」
「命乞いのつもり?」
「そういうつもりじゃないよ。ただもうちょっと近くであのタペストリーを見たいだけ。その後なら私を食べたって構わないから」
内心面食らって、アラクネは聞き返した。
「自棄になってるの?それともただの自殺志願者かしら」
「私には本当に何もないの。生まれつき両腕に力が入らないせいで荷物もろくに持てないし、織物すらまともにできないんだから。少しも望んでない結婚相手の家を飛び出してふらふらしてたら、貴方に捕まっちゃった」
少女は寂しげに笑って両腕を掲げてみせた。だらんとぶら下がった両腕は不自然に細く、花びら一枚持てそうにない。
だからね、と少女は続けた。「せめて綺麗なものを見てから死にたいと思っていたから……。貴方がその願いを叶えてくれた。だから私は、もう満足」
「あぁ!さっきから聞いていれば、こっちがどうにかなりそうだわ!」苛立ったアラクネが叫んだ。「何もないだの、綺麗なものを見てから死にたいだのと、これだから何も得ようとしない奴は嫌いなのよ!欲しけりゃ神にだって盾突きなさいよ!この世界を、その両腕を恨みなさいよ!自分の不幸を飲み込んだフリして、なんでもわかってますって顔が一番嫌いなのよ、アタシは!」
アラクネは蜘蛛の糸で仕切った奥の部屋からいくつものタペストリーを持ってくると、少女の前にどさどさ置いた。
「ほら、お望みの品!」
「わぁ、どれも凄く綺麗!これは何のお話?どうやって織ってるの?──あ、ごめんなさい。はい、食べてどうぞ」
「食べないわよ」
不貞腐れたように言うアラクネに、少女はぽかんと顔を上げた。
「え?」
「こんな織物で喜ぶなんて、私の誇りが許さないわ。今の貴方なんて食べる価値すら無いもの」
それに、とアラクネは心の底で思う。私は何故、蜘蛛の姿になってまで織物を織り続けているの。こんな洞穴の中で誰に見せることもなく、まだ神に挑もうとしているのかしら。それとも……。
少女は戸惑いながらアラクネと織物を交互に見ている。
「じゃあ貴方は私をどうする気?」
「どうもしないわ。逃げたいなら逃げればいい」
「それならここにいてもいいかしら。どこにも行く宛が無いの」
「……好きにしたら」
アラクネは少女に背を向けて、吊るしておいた自身の糸を手繰り寄せた。少女がその手元をじっと見つめている。
もしかすると自分はこうなることを待ち望んでいたのかもしれないとアラクネは思う。
神でも誰でもなく、利益や見栄の為でもなく、ただ綺麗なものを見たいと願う人間の為にだけ織りたい。富も名声も嫉妬もどうでもいい。
本当に美しい織物を作り上げる為に、アラクネは一本の糸を手に取った。
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