3日目 道

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3日目 道

 矢川裕一郎は首を傾げた。  駅からの帰り道である。いつも通っているはずの道が、どうにも見慣れない気がする。  あんな引越し屋の看板なんてあっただろうか。それに公園の花壇の花もピンク色だと思っていたが、街灯に照らされた花はどう見ても紫色だ。  いやいや、そんなものは見間違いだと矢川は自分に言い聞かせる。引越し屋の看板は見落としていただけだし、花の色はうろ覚えだっただけだろう。  それでもどことなく落ち着かない。今までなんとも思わなかった光景が、記憶とわずかにずれている。  会社勤めを始めて30年、朝も夜もこの道を通っているからこそ思い込んでいる部分もあるのかもしれない。あまりに馴染んでしまうと、ふとした瞬間違和感を覚えてしまうものだ。    大通りから横道に入り、住宅地を抜けると我が家だ。矢川は記憶にある近所の家を見つけてホッとした。  不意に金木犀の香りがした。この近くに金木犀なんてあっただろうか、とまたもや不安が胸に忍び込んでくる。いや、きっとどこかの庭に植えられていたのだろう。自分が気が付かなかっただけだ。  嫌な予感を振り払う為に、自分の家のインターホンを押す。違う人が出てきたらどうしようと身構えていた矢川は、妻の顔を見て肩の力を抜いた。  「あら、あなただったの。鍵をもってるならインターホン鳴らさなくていいのに……」  呆れたような妻の声に苦笑いしながら矢川は玄関へ入る。間違いない、俺が建てたささやかな城だ。  先に台所へ戻っていた妻が、靴を脱いでいた矢川に声をかけた。  「あ、そういえば郵便物を取って来てもらえる?夕方取り損なってたから」  「ああ、いいよ」  脱ぎかけた靴を履きなおして郵便受けを開ける。チラシや町の広報誌に混じっていたDMの宛名を見て、矢川は手を止めた。  何枚かある郵便物の宛名は全て同じだった。  『浦川 浩一郎 様』  ──なぁ、俺の名前はなんだった?  男は心の中で、妻の背中に問いかけた。
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