アンリ第七王子 第九話

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アンリ第七王子 第九話

 気持ちが先走っていた。国境から、まっすぐ家に帰りたかった。エーリカが待っている家。娘が待っている家。  俺は、全力で自分の気持ちを抑えた。まずは、イヴァンへの――王への報告だ。  戦争を終結させ、休戦協定を結ばせた。サウス王国側にいくつもの義務を背負わせた、休戦協定。戦争の経緯と結果を、王に報告する。  同時に、宣言しよう。俺は完全に王家から離れる、と。なんなら、王家の人間という立場を捨てて、アースキン男爵家に婿入りしてもいい。今の俺の実績があれば、アースキン男爵家にも歓迎されるだろう。  王族ではなくなることで、イヴァンが俺を敵対視することもなくなる。もちろん、俺の家族に危害を加える可能性もなくなる。  王家に帰還し、全てを報告した。ほとんど犠牲を出さずに勝利したことを、イヴァンは大いに賞賛していた。俺に対して、労いの言葉まで口にした。もっとも、その言葉は演技だろう。周囲の人望を集めるための演技。有能でありながら人格者という仮面。  イヴァンの仮面が一瞬だけ外れかけたのは、俺が、自分の意思を告げたときだった。 「今回の戦争を機に、俺は、王家を離れるつもりです。必要であれば、アースキン家に婿入りもしようかと」  イヴァンの表情に、困惑が表れた。 「なぜだ?」 「イヴァン王がいるなら、この国は安泰でしょう。そこに、俺などが出る幕はありません」  心にもない理由を、俺は口にした。 「それなら俺は、騎士として国の平和に尽力したい。王が国を造り、成長させ、安定させるなら、俺はこの国を守る役割を担うつもりです」 「……本気か?」  イヴァンは、探るように俺を睨みつけている。人を蹴落としてきた分だけ、猜疑心に囚われているのだろう。彼は王になるという野望を果たした。この後に警戒するのは、身内からの反旗だ。 「本気です」  イヴァンの問いに、俺は即答した。 「俺は、大切なものを守りたい。この国に害をなすもの――もっと言うなら、俺や俺の家族に害を及ぼす者から。そんな者が現れたら、全力で戦い、蹴散らすつもりです」  俺を睨むイヴァン。彼から、俺は視線を逸らさなかった。 「そのために俺は王家を離れ、大切なものを守るために尽力するのです」  俺達の会話は、周囲の者達にどんな印象を与えているのだろう。もしかしたら、美しい兄弟の絆を思わせたかも知れない。兄が国を造り、弟が国を守る。そんな会話。  しかし、実際は違う。そのことに気付いているのは、たぶん、俺とイヴァンだけだ。 『王位なんて、好きなだけくれてやる。邪魔者は立ち去ってやる。その代わり、俺や俺の家族に危害を加えたら、全力で戦う。全力で叩き潰す』  俺の真意に、イヴァンは間違いなく気付いている。 「いいだろう。励めよ、アンリ」  イヴァンは引きつった笑みを見せた。周囲には、弟の意思を尊重する兄に見えるように。 『お前の意見を飲んでやる。お前も、俺に一切危害を加えるな』  お互いだけが理解している、会話の真意。無言のまま、何の書面も交わさず、俺はイヴァンと契約した。互いの立場を脅かさない契約。  そして俺は、王家を出た。もう二度と、王子としてここに戻ることはない。  王家を出て、俺は全力で家に向かった。  王家に戻ったときは真上にあった太陽が、もうかなり傾いていた。西日が眩しい。  家に向かう俺の脳裏に、エーリカの姿が思い浮かんだ。  こんな俺と結婚してくれた。妻として、俺と一緒にいてくれた。俺の娘を産んでくれた。俺のために一生懸命練習して、料理を作ってくれた。俺が家を出るとき、少しだけ寂しそうにしてくれた。  エーリカ。君には、俺に対する恋愛感情などないだろう。家族として大切でも、男として愛してはいないだろう。  俺はエーリカを愛している。女性として愛している。たとえ、彼女の気持ちがどうであっても。だからこそ、これから一生、命がけで守り続けたい。彼女の幸せな生活を、守り続けたい。  家に着いた。一年半以上離れていた、我が家。結婚し、娘も産まれ、初めて家族を築けた場所。  俺が、エーリカを好きになった場所。  ドアを開けた。 「ただいま」  家の中に向かって声を掛けた。  けれど、返答はなかった。  家の中は、静かだった。明らかに、誰もいなかった。 「?」  家の中に入り、歩き回った。台所や大部屋、リビングに足を運んだ。でも、誰もいない。俺の耳に入ってくるのは、自分の足音だけだった。  家の中は、驚くほど綺麗だった。生活感がないとさえ言える。家具が揃っていることを除けば、この家に初めて来たときのようだった。  この家が新築だったあの日。新婚だったあの日。俺の心に、エーリカへの愛情などなかったあの日。 「エーリカ!?」  大声で呼んでみた。返答はない。  俺は、いつの間にか駆け出していた。向かったのは寝室だった。俺とエーリカの寝室。最初は、二人で寝ていた場所。娘が産まれて、三人で寝ていた場所。  ドアを開けた。  窓から夕日が差し込んでいる。部屋の中央に、三人でも寝られる大きなベッド。シーツも布団も、綺麗に整えられていた。  まるで新品のように。  まるで、次の家主を待っているかのように。  ベッドの近くの本棚。本が数冊並んでいる。  本棚の一冊を、俺は手に取った。エーリカが、彼女の実家から持ってきた本。貧しい少女と貴族の、恋の物語。  馬鹿な俺は、ようやく事態を飲み込めた。  一年半以上も、俺は戦争に行っていた。長い間、家を空けていた。戦争は圧勝だったが、国境付近では大きな炎が上がった。血にまみれ、ノース王国側からも多少の犠牲が出た。 『夫は戦死した』    エーリカがそう思っても不思議ではない状況だ。いや、間違いなくそう思っただろう。王家の人間が激化した戦地に残るなんて、通常ではありえない。生きているなら帰ってくるはず。帰ってこないということは、命を落としたんだ。彼女がそう考えるのに、十分過ぎる根拠があった。  国境が戦火に包まれてから、一年以上経っていた。つまり、エーリカは、一年以上も未亡人として過ごした。  類い希なる美貌のエーリカを、周囲の男が放っておくだろうか。美しい未亡人がいたら、周囲の男は何を思うだろうか。  答えは決まっている。  目まいがした。立っているのが辛い。  寝室のベッドの前で、俺は膝をついた。俯いて、床を見つめた。  生まれて初めて、自分の命よりも大切なものを見つけた。自分の命を犠牲にしても守りたいと思った。それほどまでに大切だから、国境で戦い続けた。  エーリカが幸せなら、安心できる。彼女が幸せなら、どんな苦痛にも耐えられる。そう思っていた。  そう思っていた、はずなのに。  ポタリ。ポタリ。滴が、床に落ちた。俺の視界が、大きく歪んだ。  争いには勝った。王家とは無関係なところで、地位も名誉も手に入れた。エーリカにも娘にも、誇れる自分になれた。  でも、俺は、もう彼女の夫ではなくなった。もう、娘の父親でもなくなった。  確信に近い想像が、頭の中に浮かび上がった。異常なほど鮮明な映像。残酷なほど現実的な光景。  エーリカが、他の男の腕に包まれている。互いに裸で、抱き合っている。「愛してる」と囁き合っている。娘は、俺以外の男を父と呼んでいる。  俺が、彼女たちに与えられなかった幸せ。それを、他の男が与えている。  初めて手に入れた、自分の命よりも大切なもの。生涯をかけて守り続けたいもの。一生を共にしたいもの。  それを、なくしてしまった。(すく)い上げた砂が、指の隙間からこぼれ落ちるように。サラサラ、サラサラと。抜け落ち、風に吹かれて消えていった。 「……エーリカ……」  絞り出した声は、言葉にならなかった。ただの呻き声のようだった。  俺の手には、何も残っていない。大切なものは、全て消えてしまったんだ。  自分の命を残して、俺は全部を失った。  この命より大切なものを、全て。
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