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アンリ第七王子 第三話
マシューが主催したパーティ当日。
エーリカの調査結果の報告は、俺の頭の中に入っている。その情報をもとに、俺はエーリカを探した。前髪で顔が隠れた、どこかやぼったい女。すぐに見つけ出せた。
そのまま、じっくりと観察した。
エーリカは、予想していたタイプの女とは違った。
自分は政略結婚を強いられる。エーリカは、その現実を理解していた。半面、少しでも現実に抵抗しようとしていた。恋愛に夢を見ながら、現実に縛られる。そんな少女。
エーリカが、テーブルの料理を取るために、少しだけ前屈みになった。前髪で隠れた顔が、チラリと見えた。驚くほどの美人だった。絶世の美女と言っていい。それなのに、前髪を長く伸ばし、綺麗な顔を隠している。間違いなく、気に食わない上流貴族に見初められるのを防ぐためだ。
自分を知り、世の中を知り、適切な対策を講じている。
パーティの席で見たエーリカの第一印象は「面白い女」だった。
こんなに面白い、しかも絶世の美女。王家を出るためだけにエーリカを口説くつもりだったが、少しだけ気分が変わった。彼女となら、結婚してもいい。それどころか、現時点で考えらえる最高の結婚相手と言える。
現実を知っている彼女だから、結婚後に俺を裏切ることはないだろう。少なくとも、俺が良い夫であり、生きている間は。
パーティーの席で、エーリカの一挙一動を見続けた。彼女は、ウッドビル侯爵子息のジョシュアを狙っているようだった。
でも、そうはさせない。
エーリカが、ジョシュアに声を掛ける前に。ジョシュアに、彼女の素顔を見られる前に。
俺は行動を起こした。
「貴女に一目惚れしました。どうか、私の妻となってくれませんか」
俺の口説き文句は、その場の全員に聞こえたのだろう。周囲は、一瞬にして静まり返った。まあ、周囲に聞こえるように、わざと大きな声で口説いたのだが。
王族の人間に、こんな大勢の前で口説かれた。エーリカには、断る術などないはずだ。『怠惰な第七皇子』といえど王族。無礼を働くわけにはいかないのだから。
思惑通りに、俺とエーリカの結婚が決まった。彼女の両親は、王族と繋がりができることを諸手を上げて喜んでいた。
あっという間に結婚話は進んだ。パーティーから三か月後には、上流階級が集まる住宅街に新居を構えた。必要な物を新居に運び入れ、執事や侍女も招いた。
実にあっさりと、俺とエーリカの新婚生活が始まった。
エーリカと新居に足を踏み入れた際、俺は、紳士的に彼女に接した。
「目まぐるしいうえに突然のことで、ごめん」
エーリカは賢い子だと思う。恋に夢を見ながらも、現実を理解している。だからこそ、思い込ませる必要がある。俺との結婚が悪くないものだと。
「でも、一目惚れっていうのは本心なんだ。だから、俺の前では綺麗な君でいてほしいな」
顔を近付けてエーリカに囁き、俺は彼女の前髪を上げた。
綺麗な額に、大きく愛らしい目元。通った鼻筋。どこか幼さを残すものの、絶世の美女と言っていい顔立ち。
エーリカにとっては、ほとんど強制的に決められた結婚。けれど彼女は、不快そうではない。悪くないな。そんなことを思い始めている表情。もちろんそこに、情熱的な恋慕は一切感じないが。
これでいい、と思った。エーリカが「悪くない」と思っているなら、それでいい。彼女が「そこそこ幸せ」くらいに思えているなら、及第点だ。彼女は馬鹿ではない。夫を裏切ってまで、情熱的な恋愛に身を焦がすタイプではない。
これからの俺の課題は、エーリカの今の気持ちを維持することだ。俺自身の安全と平穏な生活のために、全力を尽くそう。
結婚生活が始まってから、俺は、エーリカをお姫様のように扱った。一日に数回は、エーリカの容姿を褒めた。姿見の前で綺麗な服を着せ、微笑みかけた。
「俺の前では、前髪を上げていて欲しいな。綺麗なエーリカを見ていたいんだ」
寝室に入るときはエーリカの手を取ってエスコートし、ドアを開けて彼女を通らせた。
エーリカが何かに失敗しても、決して怒ったりしなかった。むしろ、ごめんなさいと呟く彼女を、優しく慰めた。
初夜のときは、とにかく気を使った。
俺は今まで、性の教育で数人の女と寝た。何度も、何度も。けれど、性行為が初めての女を相手にしたことは、一度もない。
できるだけ痛くないようにした。ひたすら優しくした。仮に痛かったとしても、それが不幸だと感じないように。緊張するエーリカを抱き締め、耳元で甘く囁き、肌と肌が触れ合う心地よさを知ってもらいながら、じっくりと行為に及んだ。
エーリカは少し痛がっていたが、不快ではないようだった。行為が終わった後は、擦り寄るように甘えてきた。目を閉じて、俺の肩に頭を寄せてきた。
エーリカが、閉じた瞳の奥で何を考えていたのか。何を想像していたのか。たぶん、俺との結婚生活ではないだろう。もしかしたら、ジョシュアのことを考えていたのかもしれない。それでも彼女は、俺を裏切らないだろう。この結婚生活が幸せである限りは。
新婚初夜から、毎日肌を合わせた。もちろん、エーリカが生理の日を除いて。そんな毎日を送っていたら、当然のように彼女は妊娠した。
妊婦となったエーリカを、俺はますます気遣った。とにかく、いい夫であることを心掛けた。侍女達と共に料理をし、妊婦の体にいい物を作った。スプーンで彼女の口元まで運び、食べさせた。彼女が何かを欲しがったら、すぐに買いに行った。寝る前には頭を撫で、労い、おやすみのキスをした。
初めての出産は大変そうだった。さすがにこのときは、打算抜きで心配になった。助産婦に励まされながら、痛みに悶え、苦しみ、呻き声を上げながら出産していた。
出産の、永い永い苦労と苦痛。それを乗り越え、エーリカは娘を産んだ。
産まれたばかりの娘。
小さくて、真っ赤で、くしゃくしゃな顔をした娘。こんなに小さいのに、ちゃんと人間なんだ。ちゃんと生きているんだ。
エーリカは、それこそ命がけで産んでくれたんだ。
俺の――自分の身を守ることしか考えていなかった俺の、娘を。
「ありがとう、エーリカ。お疲れ様」
無意識のうちに、労いの言葉が出た。策略も保身も、頭の中から抜け落ちていた。
エーリカは、出産でクタクタになっていた。汗まみれで、髪の毛はグシャグシャで、疲弊し切っている。目元には隈があり、顔全体が浮腫んでいた。いつもの美しい姿は、そこにはなかった。
それなのに、今まで見てきたどの彼女よりも、俺の心に残った。思わず抱き締めたくなるような、今の彼女の姿。
エーリカが落ち着くまで、一晩中でも側にいたい。今の彼女の要望なら、何でも聞いてあげたい。
湧き出た気持ちのままに、俺はずっとエーリカの側にいた。出産したその日だけではない。彼女の調子が戻るまで、俺は寄り添い続けた。
結婚した当初の目的。王家を離れて、適当かつ平穏に生きる。そんな目的は、いつの間にか、頭の中から消えていた。
出産は、男が思っている以上に、女性の体にダメージを与える。エーリカの体調が戻るまで、俺はかいがいしく世話をした。手を抜きたくなかった。
王家を出てから久し振りに、勉強をした。食材と料理の勉強。医食同源の言葉の通り、食事は健康の要だ。できるだけ味がよく、できるだけ彼女の体にいいものを作りたかった。
世話をした甲斐があって、エーリカの体調は半年もすると完全に戻った。むしろ、出産前より元気なくらいだった。
元気なエーリカを見て、嬉しくなった。出産前の、はつらつとした美女に戻った。
ただ、なんだか。
なんだか、変な気分だった。
美しいエーリカを見ていると、なんだか胸が苦しかった。
妊娠中や出産後に世話をしたことを、エーリカはとても感謝してくれた。
「私も、あなたがしてくれたみたいに、何か料理を作りたい」
元気になってすぐに、エーリカはそんなことを言い出した。侍女達に料理を習い始めた。侍女達と、食材の買い出しにも出かけるようになった。
エーリカは、俺に言われてから、前髪で顔を隠さなくなった。彼女の綺麗な顔が、色んな人の目に映るのだ。買い出しに行ったときは、どこぞの貴族のボンボンに口説かれることもあったという。もちろん、人妻であることを伝えて断っているようだが。
少し前に感じた、胸の痛み。苦しみ。綺麗なエーリカを見て湧き出た、今まで感じたことのない気持ち。その感情は、俺の心の中で日に日に大きくなっていった。
ある日。
エーリカが、侍女達と買い出しに出かけようとした。
「エーリカ」
俺が呼び止めると、彼女が振り向いた。
「どうしたの? あなた」
言葉は、俺の意思よりも早く、口から漏れた。
「外では、前髪を下ろしてくれないか?」
出会った時みたいに、前髪を下ろしてほしい。顔を隠して欲しい。他の男に、顔を見せないで欲しい。
「エーリカは綺麗だから。心配なんだ」
俺の言葉に、エーリカはクスリと笑った。
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