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アンリ第七王子 第四話
ある晩。
エーリカが、俺に料理を振る舞ってくれた。
これまで彼女は、侍女達を手伝いながら料理を教わっていた。毎日料理の練習をし、今日、初めて自分ひとりで作った。
「ようやく、ある程度上手に作れるようになったの。あなたほど上手くはないけど」
どこか照れ臭そうに、エーリカは笑っていた。少し汚れた、彼女のエプロン。その姿は、美人というよりも、とんでもなく可愛らしかった。
口に運んだ料理は、今まで食べたどの料理よりも旨かった。エーリカが、俺のために作ってくれた料理。舌よりも、心が強く味を感じていた。
旨い。
無意識のうちに、胸中で何度も呟いた。嬉しい、と。反面、別の気持ちも湧き出てきた。
旨いけど。
旨いはずなのに。
嬉しいのに、心が痛い。
心の痛みは、俺から、保身や打算の感情を奪っていった。今まで義務的に行なっていたことを、心からやりたいと思うようになった。エーリカへの気遣い。家事の手伝い。料理。娘の世話。執事や侍女、乳母に任せ切りにせず、より積極的に行なうようになった。まるで、心の痛みを振り払うように。
今までは、自分を守ることしか考えていなかった。兄達に――特に第二王子のイヴァンに殺されないように、怠惰で無能な王子を演じていた。常に保身を考えていた。王家を出る口実として、エーリカと結婚した。
エーリカとの結婚生活で行なっていたことも、全て保身のため。保身のため、この結婚生活を維持する必要があった。だから、彼女を大切にしていた。
けれど。
今は、心からエーリカを大切にしたい。心から娘を大切にしたい。彼女達を大切にすることで、心の痛みが少しだけ和らぐ気がする。
だけど痛みは、完全には消えてくれない。
ある日。街に買い出しに出た。適当に市場を歩いていた。
道ばたで、次期王について話している男達がいた。王族の性だろうか、つい聞き耳を立ててしまった。
現在、第一王子であるマシューが、積極的に自分をアピールしている。正妻の子かつ第一王子という立場から、彼が一番王位に近い。二番手はイヴァン。民衆の評判もよく、能力も高い。
話の流れで、男達は、俺のことにも触れていた。王位継承に絡む可能性のない王子。末弟で、王位継承権は一番低い。しかも、兄弟の中で一番能力も低い。誰が言ったか、ついたあだ名が『怠惰な第七王子』という。無能さと無気力さからついたあだ名。
俺は、自分のあだ名が嫌いではなかった。こんなあだ名を付けられる、駄目王子。王位継承権も能力も低いということは、他の王子に敵対視される可能性が低いことを意味する。つまり、兄弟に命を狙われる危険性が低い。
だから、このあだ名が嫌いではない。
嫌いではない、はずだった。
それなのに、胸が痛んだ。最近感じ続けている、痛み。恐怖や不安に似た痛み。
男達の側から立ち去った。潰れるほど胸が痛い。痛みを感じながら、頭の中では、ひとつの言葉が繰り返されていた。
このあだ名を、エーリカや娘に聞かれたくない。
もちろんエーリカは、俺のあだ名など知っているだろう。それでも、彼女の耳に入れたくない。
エーリカが、改めて俺のあだ名を耳にして。俺に愛想を尽かしたらどうしよう。俺を嫌いになったらどうしよう。俺以外の男に走ったらどうしよう。
娘を連れて、俺のもとから去ってしまったら……。
胸が苦しい。息が詰まりそうだ。吐き気と目まいすら感じる。足取りが危ういと、自分でも分る。
馬鹿な俺は、ようやく理解した。天才と言える才覚があって、その才能を全て保身に向けていた俺。そんな俺が、初めて理解した感情。
俺は、エーリカを愛しているんだ。エーリカと、彼女が産んでくれた俺の娘を。
だから、こんな気持ちになっている。
妻の前で、格好いい男でいたい。誇れる夫でいたい。
娘の前で、頼れる男でいたい。誇れる父親でいたい。
俺はすぐに行動を開始した。久し振りに、本格的な勉強や鍛錬を行なった。王家にいた頃は、常に手を抜いていたこと。本気で何かを学ぶのも、本気で体を鍛えるのも、初めてだった。
勉強や鍛錬を開始したといっても、他のことに手を抜いたりしない。心から、エーリカに愛を囁いた。娘も、心から大切にした。
王家にいた頃よりも、急激に知識が増えてゆく。体の動きが鋭くなってゆく。天才の俺が本格的に努力しているのだから、当然だった。
しかし、俺の不安が消えることはなかった。たとえ努力しても、たとえ能力があっても、それを他人に証明する術がない。
何かが欲しい。俺の能力を証明する何か。妻や娘が俺のことを誇れる、何か。
今からでも王家に戻って、王位継承争いに参戦するか? 俺なら、今からでも十分に勝てる可能性がある。
いや。駄目だ。俺を蹴落とすために、イヴァンが、エーリカや娘に危害を加える可能性がある。俺自身の願望のために、二人を危険な目に合わせたくない。
何か事業でも始めるか? 俺の才覚なら、どんな事業でもある程度の成功は確実に得られる。
いや。駄目だ。商売敵が、エーリカや娘に危害を加える可能性がある。
俺の能力を証明し、エーリカや娘が誇りに思えること。かつ、彼女達に危害が加わる可能性のないこと。
考えて、思いついた。
騎士の称号を得よう。国境の警備に参加し、そこで実績を残して。しばらくは――半年ほどは家を空けることになるが、妻や娘に危害が加わる可能性はない。帰って来たときには、彼女達に誇れる自分になっているはずだ。
「国境付近で、国の警備をしたい」
自分の気持ちを、エーリカに伝えた。
「怠惰だろうが、無気力だろうが、別に良かった。実際、適当に生きてきた。王位になんて関わらずに、ただ適度に義務をこなして。適当に結婚して。適当に生きていられればいいと思っていた。でも、考えが変わったんだ」
心からの、自分の気持ち。偽りではない気持ち。エーリカにプロポースしたときとは違う。
「エーリカ。君を愛してる。娘のことも愛してる」
だからこそ、誇れる自分になりたい。
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