アンリ第七王子 第五話

1/1
前へ
/20ページ
次へ

アンリ第七王子 第五話

 国境付近に向かう日。  俺が家を出るとき、娘は泣いていた。「おとーさん」と、俺の足にしがみ付いていた。  エーリカは、寂しそうではあった。でも、辛いとは感じていないようだった。当然だろう。俺と彼女の結婚は、単なる利害の一致。恋心も愛情も、当初はなかった。  結婚当初と変わったのは、俺の気持ちだけだ。エーリカを愛している。誰よりも愛している。  彼女の気持ちは、結婚当初と変わっていないだろうが。  エーリカにとって、俺との結婚は政略的なものだ。もしかしたら、彼女が俺を愛することは一生ないのかも知れない。でも、それでもいい。俺が彼女を愛しているのだから。愛しているから、せめて、彼女が誇れる夫になりたいんだ。 「行ってきます」  涙を流す娘と愛する妻に見送られて、俺は自宅を後にした。  数日の移動を経て、国境付近に辿り着いた。  ノース王国は、国境付近に一〇八の警備基地を設置している。俺が配置されたのは、その(かなめ)となる基地だった。食料の備蓄量も剣や矢の保管量も、他の基地より圧倒的に多い。  サウス王国とは、もう八十年ほども冷戦状態が続いている。どちらの国も、相手国を敵対視している。だが、戦争での損失を考えて、本格的に仕掛けることはない。  起こるのは、国境付近での小競り合い程度。その程度なら、割と頻繁に起こる。  両国とも、小競り合いをしながら相手国の様子を見ているのだ。国境警備――両国の出入り口の防衛線が弱いと感じたら、本格的に仕掛けられるように。  その小競り合いの中で、適度に戦果を上げよう。王族の人間がある程度の戦果を上げたら、騎士の称号くらいは簡単に手に入るはずだ。それまで、たぶん半年もかからないだろう。  幼い頃からうっとおしいと感じていた、王族という身分。厳しい教育と訓練を課され、さらに、王位争いで命まで狙われる境遇。そんな立場に生まれたことを、初めて幸運と思えた。妻と娘のもとに、少しでも早く帰ることができる。  実際に、俺は簡単に戦果を上げた。仕掛けてきたサウス王国の兵を、あっさりと退けた。颯爽と馬を走らせ、敵の矢を簡単に剣で落とし、敵兵を蠅のように追い払った。  国境に来て、わずか四ヶ月。戦果を認められ、俺は騎士の称号を得た。  騎士の称号を得れば、国境警備兵の指揮を取ることができる。騎士としての戦果を上げられれば、騎士の称号が飾りではないことを証明できる。  それができたら、家に帰ろう。能力の証明ができたなら、エーリカも娘も、俺を誇ることができるはずだ。もう『怠惰な第七王子』ではないのだから。  エーリカと娘が待つ家に、帰ることができる。夫として、父親として、胸を張ることができる。もう、あの胸の痛みを感じることもないはずだ。エーリカの隣りで、堂々と、彼女の夫だと名乗れる。娘を抱きながら、堂々と、彼女の父だと名乗れる。  目的を果たせる日が目前に迫って、俺の心は躍っていた。早く帰りたい。早く帰って、エーリカと娘を抱き締めたい。愛してると伝えたい。そのためにも、サウス王国側に早く仕掛けてきて欲しい。あいつ等をいつものように追い払ったら、俺は帰るんだ。愛する妻と娘のもとへ。  ほどなくして、サウス王国側が仕掛けてきた。  しかし。  サウス王国の攻撃は、俺の想定とは大きくかけ離れていた。  予測しなかった事態。俺の予定も希望も、大きく打ち砕く事態。  あいつ等は、約八十年振りに、本格的な戦争を起そうとしていた。
/20ページ

最初のコメントを投稿しよう!

40人が本棚に入れています
本棚に追加