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アンリ第七王子 第六話
綺麗な満月の夜だった。
月の模様まではっきりと見える。そんな夜。
国境付近は砂丘が続いていて、辺り一面を見渡せる。この国境の地形も、両国が容易に攻め込めない理由だろう。身を隠せず、奇襲を仕掛にくい環境。
ノース王国国境警備隊のこの基地には、一隊一〇〇名ほどの部隊が五つ用意されている。各部隊が交代で、日々の夜の見張りを行なっているのだ。
騎士の称号を得た俺が任されているのは、第五部隊。国境警備兵といっても、金で雇った傭兵の集まりだが。
傭兵達は七つ焚かれたかがり火の周囲に集まり、談笑している。
空には、雲ひとつない。空気は乾燥している。やや風が吹いていて、少し砂が舞っている。満天の星空。満月も手伝って、夜にしてはずいぶん明るい。
明るい夜に夜襲は適さない、という話がある。明るいと、闇に乗じて敵を討てないというのがその理由だ。
しかし、明るいことによる利点もある。
明るいから、同士討ちの危険性が下がる。さらに、馬に乗って速攻を仕掛ける場合、明るい方が馬のコントロールがし易い。だからこそ、明るい夜でも、見張りに気を抜けない。
雲一つない夜。乾燥した空気。当然ながら、霧など発生するはずもなく、目に映る景色がぼやけて見えることもない。
それなのに、地平線の向こうが少しだけぼやけて見えた。それこそ、まるで霧でも掛かったかのように。
向こう側では霧でも掛かっているのだろうか。一瞬だけ、そんなことを考えた。だが、雲のない空はどこまでも続いている。目に映る範囲でそれほどの湿度差が発生しているとは、考えられない。
すぐに気付いた。あれは砂煙だと。それが、かなりの広範囲で発生している。
舞い上がる砂煙は、多くの騎兵がこちらに向かっていることを意味していた。小競り合いの仕掛などではない、多くの騎兵。馬の足音が聞こえないことから、まだかなりの距離があることが分る。それでも砂煙が見えるくらいだから、騎兵の数は五〇〇〇を超えるだろう。
周囲の兵士達は、まだ、そのことに気付いていない。サウス王国側が、本格的に夜襲を仕掛けてくるなんて。
俺の頭の中で、思考の光が無数に走った。高速の思考。
臆病な俺が真っ先に考えたのは、自分の保身だった。間違いなく、数ではこちらが大きく下回る。まともに戦っても、勝算など見い出せない。戦力差は、間違いなく十倍はあるだろう。それなら、国境警備の兵達を見捨てて、俺だけ逃げるのも一つの手だ。一人で馬を走らせて早々にこの場から逃げ出せば、少なくとも俺は生き残れる。
この場で唯一夜襲に気付いている俺が、逃亡する。それが何を意味するか。この基地は、あっという間に壊滅させられるだろう。そしてここが、敵国の拠点となる。戦争を仕掛ける拠点。
戦争になったらどうなるか。敵国は、国の内部に攻め込んでくる。戦争が激化し、戦局が敵側に傾けば、俺の家の付近も安全とは言えなくなる。
俺の家が。
エーリカが。娘が。
俺にとって大切な者が、危険に晒される!
一秒にも満たない、閃光のような思考。俺は一瞬で、逃亡の選択を捨てた。以前の自分では考えられないことだった。エーリカと結婚する前の俺ならば。
サウス王国の兵は、国境で止めなければならない。俺達が敗れるわけにはいかない。
エーリカにも、娘にも、一歩も近付けさせない!
戦力差は圧倒的。しかも、こちらは戦闘準備も出来ていない。すぐに動けるのは、警備についている俺の部隊――一〇〇名程度。
――どうする!?
どうすれば、エーリカや娘を守れるか。ただ単に、彼女達の命を守るだけじゃない。その程度なら、俺が自宅に帰ればできる。俺が、彼女達の側にいるだけで。でも、命を守るだけじゃ駄目だ。彼女達の平穏な生活も、守らなければならない。
夜襲に気付いてから二秒弱。俺は、これまで学習してきたことを頭に浮かべた。過去の戦争の記録。過去の事件の記録。過去の事故の記録。頭の中の引き出しを、次々に引いた。今のこの状況で、今のこの環境で、どうすれば敵を壊滅できるか。
今この基地にあるのは、剣や弓矢などの大量の武器。人数分の馬。小麦や干し肉などの、人数分の食料。人数分の水。警備のために灯した、かがり火。松明の火。
周囲を見回した。緩やかに吹く風は、何もしなくても砂の粒を舞わせている。明るい月や星の光で、周囲をはっきりと見渡せる。
夜襲に気付いてから三秒弱。思考の光は俺の頭を駆け巡り、記憶の引き出しを開け、最適解を導き出した。
この距離と馬の速度から考えると、敵軍がここに到達するまで、あと七分少々。
俺はすぐに行動を開始した。
「敵襲だ! 地平線の向こうに砂煙が見える! 直ちに逃走準備!」
俺の声に驚き、俺の部隊の奴等は、慌てて地平線を凝視した。だが、のんびりしている暇はない。兵達が自分の意見を口にする前に、俺は命令を下した。
「ローラン! ジュリアス! エリク! ヘンリー! お前達は、他の部隊の者達を早急に起こせ!」
この戦いは、時間との勝負になる。どれだけ迅速に、かつ的確に動けるか。俺は端的に、かつ短い言葉で命令を出した。
「他の者達は、小麦をありったけ持ってこい! 一刻を争う! 早く!」
夜襲という言葉と、突如大声で出された俺の命令。それらに驚いた傭兵達は、思考能力を失っていた。自分達を束ねる長の命令に従う――そんな、兵士としての本能に従って動いた。
思惑通りだ。今は時間がない。夜襲に気付けた理由や命令の意味を、説明している暇はない。
俺の部隊の兵士達が、すぐに大量の小麦を持ってきた。一抱えほどの袋に詰められた、小麦。台車に乗せて、保管していた小麦のほとんどを持ってきたようだ。
基地での寝泊まりの場所となっている、無数に建てられたテント。その中から、他の部隊の兵達も出てきた。
俺が夜襲に気付いてから、約五分。馬の蹄の音が、はっきりと聞こえるようになっていた。まるで地鳴りのようだ。サウス王国方面から、砂煙もはっきりと見える。人の背丈よりも高く舞う、砂煙。奴等がこの場に到達するまで、あと三分もない。
「ここから一気に撤退する! 敵はこちらの戦力を大きく上回る! まずは撤退だ!」
他の部隊にそう呼び掛け、俺は、俺の部隊の方に向き直った。
「俺達も撤退する! ただし、小麦の袋をできるだけ広範囲で捨てていくんだ! 敵の道線上に、だ! 奴等の馬に踏まれて、小麦が撒き散らされるように!」
俺も小麦を二袋持ち、馬に乗った。
「散開! 小麦を捨てたらすぐに逃亡しろ!」
俺の部隊の兵達は、わけが分からない、という顔をしている。それでも、俺の命令に従ってくれた。各自が、小麦の袋を持って馬に乗った。方々に小麦を捨てて、国境から離れてゆく。
俺は、弓と矢を一本ずつベルトに引っかけた。小麦の袋を周囲に捨て、松明を持ってこの場を離れた。
敵国側からの砂煙が、近付いてきている。動きが速い。夜襲を仕掛けるために、奴等は軽装なのだろう。進行速度を上げるため、身を軽くしているのだ。
好都合だ。俺の戦略にとっては。敵が軽装であるほどいい。
国境の基地から三十メートルほど離れたところで、俺は馬を止めた。
ノース王国国境警備兵達は、俺の後方約一〇〇メートル程度のところで様子を見ている。
俺は矢を手に持ち、その鏃に布を巻いた。鏃に捲いた布に、松明の火を点ける。火矢。弓を構え、国境方面へ狙いを定めた。
月と星の明りで、奴等の姿がよく見える。狙いが定めやすい。
敵国の砂煙が近付いてくる。その砂煙が、さらに大きくなった。地面に捨てられた小麦の袋に到達したのだ。踏まれた小麦の袋は馬の重量で潰され、破れ、小麦が宙を舞っている。緩やかに吹く風が、砂や小麦をさらに舞い上がらせる。
こちらに向かってくる敵兵に向けて、俺は火矢を放った。
矢は放物線を描き、飛んでいった。赤い放物線。火を灯したまま、敵兵まで到達した。
その瞬間。
ゴアッと、爆音が鳴った。爆発とも言える大きな炎が上がった。
強烈な熱風が、俺のところまで届いた。俺を乗せた馬が怯えて、嘶きを上げながら暴れた。手綱を強く握り、必死に制した。
粉塵爆発。その応用。
敵軍を殲滅する方法を考えたとき、俺の頭に浮かんだのは、かつての事故の記録だった。貴族の家での、食料庫での爆発事故。
食料庫にあった小麦の袋が破れ、まるで砂埃のように小麦が舞った。片付けを面倒に感じたのか、食料庫の管理をしていた召使いは、一服しようとした。煙草を吸おうと火を点けた瞬間、爆発が起こった。
小麦は、火を点ければ燃える。ひと粒の小麦に火が点けば、周囲を舞う小麦の粒にも引火する。着火の誘導が、小麦が舞っている範囲で発生する。
今回のケースは、小麦だけではなく砂煙も舞っていた。砂の粒は、小麦の粒より着火しにくい。反面、一度火が点けば、その熱は小麦を上回る。
まずは燃えやすい小麦に火が点き、瞬間的に大きな炎となる。大きな炎が砂粒にも着火させる。結果、砂が舞う広範囲で炎が立ち上る。爆発が起こる。
想像通りだった。いや、想像以上だった。爆発の熱風に煽られて、俺の体にも火傷の痕ができるくらいだった。
俺の眼前三〇メートル程度先には、地獄が広がっていた。夜襲を仕掛けてきたサウス王国の兵達が、燃えていた。軽装で攻めてきた兵達の体に火が点き、全身が火だるまになっていた。まだ息のある馬や兵達が、全身を炎で包まれながら悶え苦しんでいた。
俺の後方から、国境警備の者達が戻ってきた。皆、目の前の光景に驚きを隠せないようだった。
「アンリ王子」
俺に声を掛けてきたのは、第一部隊の隊長だった。
「あれは一体?」
「夜襲を仕掛けてきたんです、サウス王国が」
「いや。それは存じていますが」
「それを撃退したんです。小麦と砂と、火矢を使って」
「?」
第一部隊長は、わけがわからない、という顔をしている。過去の事件の事例を使った戦術など、彼等は学んでいないだろう。理屈や理論が分らないのも、当然だ。
後で説明してもいいが、今はそれどころではない。
サウス王国が本格的な攻撃を仕掛けてきた。しかも、ノース王国国境警備の要となっている、この基地に対して。つまり、ノース王国側の国境の陣地を制圧しようとしたのだ。
これから間違いなく、本格的な戦争になる。
「とりあえず、王室へ使いの者を走らせてください。サウス王国が本格的に仕掛けてきたので、戦争の人員が必要です。今までの警備程度では絶対的に人手不足です。それに、小麦を全部駄目にしてしまったので、食料も足りません。しばらくは、あそこで燃えている馬と保存していた干し肉、残った水で凌ぐことになります」
「あ……はい」
俺の言葉に、第一部隊長が頷いた。多少呆然としたままだが。
国境付近で大きな炎となっている、サウス王国の兵達。先程まで悶え苦しんでいた兵や馬も、もう動いていなかった。空気が乾燥しているせいもあるのだろう、燃える死体の炎は、まるで消える様子がない。肉の焼ける臭いが、ここまで漂ってくる。
異様で無残な光景。臭い。雰囲気。そんなものに包まれながら、俺の頭の中は、ただ一つのことに埋め尽くされていた。
エーリカと娘。俺の家族。俺に、保身以外のことを考えさせた家族。
ただ、彼女達の平穏だけを考えていた。
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