アンリ第七王子 第八話

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アンリ第七王子 第八話

 国境に来てから一年半。戦争が始まってから、一年ほどが経過した。  あれから定期的に、サウス王国が攻め込んできた。ときには、一万ほどの軍勢を率いて。  もっとも、退けるのは容易だった。見晴らしのいい国境付近では、敵の動きが簡単に察知できる。あらかじめ罠も仕掛けていた。  油の入った小袋を矢で飛ばし、油まみれにしたうえで、火矢を打って丸焼きにしたこともあった。  騎兵の大軍を落とし穴で(つまず)かせ、ドミノ倒しにしたこともあった。  単純に、矢の雨を降らせたこともあった。  サウス王国は、徐々に、確実に疲弊していった。兵士の体力面でも、単純な戦力面でも。 「もうそろそろ、こちらから仕掛けてもいいのでは?」  味方の隊長に、そう提案されたこともあった。敵の戦力は完全に削れているから、一気に決着をつけるチャンスだと。  俺はあえて、その意見を拒否した。 「サウス王国には、まだ余力があるかも知れません。じっくりと相手の戦力を削り、こちらの犠牲を出さずに勝つんです」  もちろん、そんなのはただの建前だ。  戦争が終結すれば、報告のために帰還する必要がある。そうなれば、イヴァンは俺の命を狙うだろう。自身が王になるための障害として。  狙われるのが俺だけならいい。問題は、イヴァンが、エーリカや娘を人質に取る可能性があることだ。彼女達を危険な目に合わせたくない。危険な目に合わせてしまったら、消えない傷を彼女達に負わせてしまうかも知れない。たとえ、命を守れたとしても。  命があるだけでは駄目なんだ。この先、彼女達が、一生涯を幸せなまま生きるために。心にも体にも、消えない傷など負わせたくない。  俺は、至極個人的で、至極身勝手な理由で戦争を長引かせていた。もちろん、事実は誰にも伝えていないが。  エーリカや娘と離れて暮らすのは、俺だって嫌だ。一日ごとに、会いたいという思いが募る。胸の苦しさが増してくる。  結婚するまでは、寂しいなんて思うことなどなかった。自分の命を守ることだけを――保身のことだけを考えていた。  そんな俺が、自分以外の人のことばかり考えている。愛する妻。愛する娘。  早く彼女達に会いたい。ずっと、死ぬまで、彼女達と一緒にいたい。でも、自分の気持ちを優先して彼女達を危険な目に合わせるなんて、絶対に嫌だ。  彼女達の幸せのため、胸の痛みに耐える日々。寂しくて、苦しくて、悲しくて。  それでも耐え抜きたいと思える日々が過ぎて。  ある日のことだ。王家から伝令が届いた。第一王子であるマシューが急逝した。まだ二十九歳。死因は、心臓発作だという。  イヴァンの仕業だ。間違いなく、マシューは暗殺された。  暗殺という証拠はないだろう。けれど、俺は確信していた。イヴァンは外面がよく人望もあるが、実際は、自分以外の人間を駒としか思っていない人間だ。じっくりと用意をし、王位継承の邪魔者を消し去ったのだろう。どんな方法を使ったのかは分らないが。  第一王子が急逝したことは、瞬く間に国中に知れ渡った。国境付近で戦争が起こっていることも相まって、国内は混乱することが予想された。  手際よく混乱を防いだのも、イヴァンだった。彼は賢い。才覚だけで言うなら、俺と同じレベルだろう。もしかしたら、俺より上かも知れない。その才覚を活かし、国内に混乱を起こすどころか、逆手に取って人望を集めた。  国内の動きを見て、父――王も色々と悟ったのだろう。退任を宣言し、次の王にイヴァンを指名した。  王位が、入れ替わった。イヴァンの野望が現実となった。  イヴァンは褒められた人間ではない。冷血で、冷徹。しかし、彼の本当の姿を知る者は、ほとんどいない。国民の人望を集め、優れた知能と才覚で、国を安定させるだろう。王となったことで、他の王位継承権者を始末する必要もなくなった。  つまり。  俺はようやく、帰還できるんだ。  俺は、国境警備兵を集めた。彼等の前で、高らかに宣言した。 「これから、こちらから攻勢に出る! サウス王国は、もう完全に疲弊している! 戦力も十分に削いだ! この戦争を終わらせるんだ!」  集まった兵達は、俺の号令に手を上げて応えていた。専守防衛の策を取りつつも、連戦連勝だった戦い。攻めに出られずに溜まった鬱憤。家族や恋人のもとに帰りたいという気持ち。この場に集まった兵達から、強い意思を感じた。  彼等を煽るように。自分に言い聞かせるように。俺は、腹の底から叫んだ。 「家族のもとに! 恋人のもとに! 友人のもとに! 俺達を待っている人達のもとに!」  俺の家族。会いたくて、抱き締めたくてたまらない、俺の家族。彼女達のもとへ。 「勝って、帰るんだ!」  おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ……!!  国境付近で、多くの声が上がった。その声は、サウス王国にまで届いていたかも知れない。けれど、そんなことは関係ない。  俺の頭の中は、ただ一つのことに埋め尽くされていた。  早く帰って、エーリカを抱き締めたい。  ――それから、わずか二ヶ月後。  一年以上も続いていた戦争が、あっさりと終結した。完全に敵国を制し、サウス王国には休戦協定を結ばせた。ノース王国側に圧倒的優位な条件の、休戦協定。  もう、俺の家族に危害を加えるものはない。  これで、ようやく帰れるんだ。ようやく伝えることができるんだ。  ずっと、エーリカに言いたかった言葉。心からの言葉。 「愛してる」  本来の予定より一年以上も遅れて、俺は帰還した。
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