最終話 エーリカ・アースキンの結婚

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最終話 エーリカ・アースキンの結婚

 アンリは生きてる。戦地で総指揮官として働き、ノース王国を勝利に導いた。  私がその報告を受けたのは、戦争終了を知ったのとほぼ同時だった。  アンリの生存を知った瞬間、私は泣き崩れた。大切な人が、生きている。当たり前のことが、この一年間は当たり前ではなかった。だからこそ、嬉しくて嬉しくてたまらない。  まるで洪水のように、涙が溢れた。  同時に、少なくない罪悪感に襲われた。胸を締め付ける罪悪感。思い出すのは、第二王子の王位就任パーティ。そこで、ジョシュアに声を掛けられた。  ジョシュアは、物語の主人公のような人だった。スラリと整った長身。端正な顔立ち。外見によく似合う知性と有能さ。スマートな立ち振る舞い。  そんなジョシュアに口説かれた。あのパーティで。彼は、私が結婚していることも、娘がいることも知っていた。知りながら、それでも口説いてきた。  それくらい、私を見初めてくれたんだ。  結婚前に、アンリと出会ったパーティで。私は、ジョシュアに声を掛けようとしていた。どうせ政略結婚をするのなら、ジョシュアのような人と結婚したい。だから、当時は伸ばしていた前髪を上げ、彼だけに素顔を見せるつもりだった。  私の思惑は、アンリにプロポーズされたことで潰れたけれど。  あのときの思惑が、何年か越しで叶おうとしていた。しかも、ジョシュアから口説かれるというオマケ付きで。  ジョシュアの指が、私の顎先に触れていた。少しだけ、顎を上げられた。彼の唇と私の唇が、向かい合うように。  私の体は震えていた。その震えは、喜びのせいか。それとも、別の理由で震えていたのか。そのときは、まだ分かっていなかった。  ジョシュアの唇が近付いてきた。  反射的に、私は目を閉じてしまった。  私の震える手が、ピクンッと動いた。  ジョシュアの唇が、ほんの少しだけ、私の唇に触れた。  その瞬間、私の脳裏に浮かんだのは、アンリとの結婚生活だった。  結婚当初から優しくしてくれた。大切にしてくれた。愛してると言ってくれた。妊婦になった私の面倒を、かいがいしく見てくれた。出産でくたびれた私を、支えてくれた。  昔から憧れていた、物語のような恋。それが、手の届くところにある。物語に出てくるような男性の唇が、私の唇に触れている。  ジョシュアの唇が。  夫以外の唇が。  ――アンリ以外の男性の、唇が!  震える私の手は、ほとんど反射的にジョシュアを突き放した。  彼の唇に触れていた、私の唇。かすかに開いた私の口から、吐息が漏れた。 「――……」  小さく、無意識のうちに言葉が出た。私のその声は、たぶん、誰の耳にも届いていない。すぐ近くにいる、ジョシュアの耳にさえも。  突然の拒絶に、彼は驚いた顔をしていた。 「……どうしてですか? エーリカ様」  私は首を横に振った。じわりと、涙が浮かんできた。 「ごめんなさい、ジョシュア様。でも、駄目なんです」 「どうして?」  ジョシュアは優しく、私の肩に触れた。まるで諭すように。 「アンリ様は、戦地で活躍されたそうです。ですが、現在は、生死に関する情報も入ってこない。王族の方が、そんなに長いこと戦地に(とど)まるなんて、通常では考えられない。それは、つまり――」 「私は信じてるんです」  私は、ジョシュアの言葉を遮った。彼が何を言おうとしているのかは、分かっている。私の聞きたくない言葉を言おうとしている。  だから、遮った。本心ではない言葉を口にして。 「夫は生きて帰って来ると、信じてるんです」  アンリが生きていると、信じていたわけではない。状況から考えると、アンリはすでに亡くなっている可能性が高い。  それでも―― 「私は、あの人の妻ですから」  建前でも、本心でなくても、心の中では絶望していても。  それでも私は言い続ける。アンリは生きている、と。もし彼が命を落としていても、彼を信じ続ける。  ジョシュアにキスをされたとき、強く想ってしまったから。側にいる彼のことよりも、アンリのことを。強く、強く、想ってしまったんだから。  思わず、アンリの名を口にしてしまうくらいに。  アンリが生きている。その報告を聞いたときは、嬉しかった。同時に、強い罪悪感を覚えた。  たとえ一瞬とはいえ、ジョシュアに心が揺らいだ。一度だけとはいえ、唇を奪われた。そんなこと、アンリには知られたくない。大好きな人には、一生知られたくない。  私は、とびきりの環境を整えて、帰ってきたアンリを迎えようとした。罪悪感が、そうさせた。執事や侍女達に手伝って貰いながら、家中をピカピカにした。まるで新築のように。  食事も、毎日しっかりと作った。いつも昼過ぎに買い出しに出かけ、夕食の材料を吟味して購入した。夕方近くに帰宅して、料理を作った。いつアンリが帰ってきても、いいように。彼に喜んで貰えるように。  でも、私にそんな行動を取らせたのは、罪悪感だけではない。  新婚からやり直したい。心からそう思った。私は初めからアンリが好きで、大好きな彼と結婚した。ジョシュアなんて人には惹かれていなくて、アンリしか目に映っていなかった。心が揺らぐこともなかった。  新婚当初から、夫を愛してる。そんな思いを現実にしようとした。アンリが帰ってきたら、新婚生活をスタートさせるんだ。  私は、アンリ第七王子の妻だ。「怠惰な第七王子」なんて呼ばれているのに有能で、愛情に溢れている。そんな彼の妻だ。  新築のように綺麗にした、家の中。寝室のベッドは、特に念入りに綺麗にした。新しい夫婦を迎えるに相応しい、整えられたベッド。  愛する人を迎える準備。アンリの生存を知ってから、毎日、毎日、欠かさなかった。  いつも思っていた。今日こそ帰ってきてくれるかな。今日こそは、会えるかな。まだ帰ってこないのかな。いつになったら帰ってくるのかな。  いつもと同じように、今日も、昼過ぎに買い出しに行った。侍女や執事、娘まで連れて。 「これね、おとーさんが好きなやつ!」  娘が、果物を抱えて駆け寄ってきた。満面の笑顔だった。アンリの帰りが待ち遠しのは、私だけではない。でも、私が一番、夫の帰りを待ち望んでいる。  買い出しを終えて、みんなで荷物を持って。  いつものように帰宅して。アンリが帰っていることを期待しながら、家のドアを開けて。  家の出入り口で、私は違和感に気付いた。  新築のようにピカピカに磨いた、家の床。そこに、薄く足跡があった。あまり大きくない足跡。小柄な男性の足跡。  足跡は家中を回った後、寝室に向かっていた。  ドサリ。私は、抱えていた荷物を落とした。荷物を拾うこともなく、駆け出した。大きくない足跡を追って。寝室に向かって。  寝室のドアは、開け放たれていた。一人の男性が、肩を落として座り込んでいた。私に背を向けて。男の人にしては小さな体。でも、小柄でも鍛えられている。  それが誰かなんて、確認するまでもなかった。確認する必要なんてないのに、私の口から、彼の名前が漏れた。 「……アンリ」  男性が――アンリが、私の方を振り向いた。  一年半ぶりに見る夫。一年半ぶりに見る、大好きな人。  アンリの目からは、なぜか、大粒の涙が流れていた。涙に濡れる、可愛らしい彼の顔。まるで、失恋直後の少女のようだった。  私の心の中は、ただ一つの感情に埋め尽くされていた。言葉に出来ないほどの歓喜。嬉しくて、嬉しくて。  嬉しいのに、私の目からも涙が溢れてきた。肩が震えた。嬉しすぎて、現実感が湧かなかった。  目の前にいるのは、確かに夫だ。生存報告も受けていたから、間違いない。それなのに、思ってしまった。  夢かも知れない。幻かも知れない。  きっと、アンリも、同じことを思っている。  同じことを思ったから、私達は、まったく同じ行動を取った。  互いが、互いに駆け寄った。吸い寄せられるように。  夢じゃないと確認するように、抱き締めた。幻じゃないと確認するように、抱き締めた。  強く、強く抱き合った。 「エーリカ」 「アンリ」  愛おしむように、名前を呼び合った。  感じる温もりは本物で、耳には、確かに彼の声が届いている。それでも、恐かった。疑いが消えなかった。  夢かも知れない。幻かも知れない。夢や幻なら、いつかは消えてしまうかも知れない。  それなら、せめて。消えてしまう前に、伝えたい。何よりもまず、伝えたい。  ずっと言えなかった言葉を、私は口にした。絶対に伝えたかった言葉。心からの気持ち。 「愛してる」  私とアンリの声が、一言一句違わず、重なった。  (終) ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ※本編はこれで終了ですが、明日(10/19)の夜にちょっとしたオマケを投稿予定です。  よろしければ、お目通しいただけると嬉しいですm(_ _)m
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