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エーリカ・アースキン 第九話
大広間中央付近で、皆が、会話を交わしながら食事をしている。
あそこから窓際までは、それなりに距離がある。私とジョシュアの会話が、皆の耳に届くことはないだろう。
窓は開け放たれていて、緩い風が入ってくる。頬を優しく撫でる風。涙の跡が残っているだろう、私の頬。
「気持ちいい風ですね」
ジョシュアが会話を切り出した。もちろん彼は、天気や風のことを語るために、私を連れて来たのではない。
「そうですね」
当たり障りのない返答をして、私は深呼吸をした。
目の前には、以前狙っていた侯爵子息がいる。憧れていた物語。物語のような恋をしたかった、かつての私。目の前の男性は、そんな恋を実現してくれるだろう。
「アンリ様のこと、お気に病んでいると思います」
「……はい」
夫に、早く帰ってきて欲しいです。その言葉を、私は口にできなかった。心が、嫌な予感に囚われてしまっているから。アンリが永久に帰って来ない、という予感。
「立場上、私の耳には、色んなことが入ってきます。王家の方々のことや、国境付近の争いのことも。どうやらアンリ様は、世間の噂とは裏腹に、かなり優秀な働きをされたそうで」
「そうなんですか?」
私には、何の情報も入ってこなかった。ただ、約八十年ぶりに大きな争いになった、と。アンリが国境の防衛に参加してから、半年も経たずに。
「私は、家にいた頃の夫しか知らないので。国境付近での夫のことは、何も聞かされていないのです。お恥ずかしながら」
「そうでしたか」
私とジョシュアは、並んで立っている。距離は離れていた。彼が手を伸ばせば、ギリギリで私に届く距離。
「アンリ様は、王位争いに参戦するつもりはなかったご様子で。失礼ながら、能力面においても、他のご兄弟に比べて数段後ろにいると聞き及んでおりました。ところが、国境付近では、かなりのご活躍をされたと聞き及んでおります」
アンリは確かに、王位継承に関わるつもりなどなかったのだろう。けれど、彼の気持ちと能力は別物だ。少なくとも、私が見てきたアンリは、決して無能ではなかった。
「家での夫は、非常に優れた人でした。どうして『怠惰な第七王子』なんて話が出回っているのか、分からないくらいに。彼が読んでいる本は、私などでは理解することすら難しいものでした。彼が剣術や武術の訓練をしている姿は、素人の私から見ても凄いものでした。それだけではなく、料理も上手で。しかも、その料理も、美味しいだけではなく体にもよいもので」
語っていると、アンリの姿が頭に浮かんだ。私を愛してくれた彼。娘を大切にしていた彼。彼の作った料理を「美味しい」と言うと、喜んでくれた。産後で立ちくらみした私を、抱えてベッドまで運んでくれた。
大切な思い出。愛おしい記憶。憧れた物語とは違うけど、私はアンリを愛していた。
アンリがいなくなるまで、私は、自分の気持ちに気付けなった。そんな自分を、引っ叩いてやりたい。
「アンリ王子のこと、大切にされていたのですね」
ジョシュアの言葉を、肯定も否定もできなかった。ただ無言で、考え込んだ。
私は、アンリを大切にできていただろうか。「愛してる」と、伝えたことがあっただろうか。アンリは、あんなにも私を大切にしてくれたのに。私を愛してくれたのに。
もちろん、アンリを無碍にはしていなかった。彼が大切にしてくれた分だけ、私も彼に何かしたいと思った。だから、侍女に料理を習った。自分なりのお返しをしたかった。
でもそれは、大切にしていたとは違う。愛していたとは違う。言ってしまえば、自分の中に芽生えた義務感だ。夫婦という契約の中で、必要な義務を果たしていただけだ。
アンリが出て行ってから、浮かんだ疑問。それが、再び私の中に浮かんだ。
どうして私は、アンリに伝えなかったのだろう。あなたは素晴しい夫だと。あなたは素晴しい父親だと。周囲があなたをどんなふうに揶揄しようと、私は、あなたを無能とも無気力とも思わない。それどころか、あなたが誇らしい。あなたの妻であることが誇らしい。あなたに愛されていることが誇らしい。
あなたを愛していることが、誇らしい。
頬に、生温かい感触が流れた。私はまた、涙を流していた。
会いたい。アンリに会いたい。一緒にいた頃に伝えられなかった言葉を、伝えたい。何度も。何度でも。今まで言えなかった分を、取り戻したい。
『誰よりも、何よりも、あなたを愛している』
気が付くと、ジョシュアがすぐ近くまで迫ってきていた。腕を思い切り伸ばさなくても、届く距離。
ジョシュアは、私の頬に触れた。親指で、優しく涙を拭ってくれた。
「実のところ、私は、少し前からエーリカ様のことを知っておりました。アンリ王子の奥様ということも、アンリ王子を大切にされていることも、アンリ王子を待ち続けていることも」
まだ涙で歪んでる、私の視界。私は、背の高いジョシュアを見上げた。アンリと見つめ合うときは、見上げることなどなかった。
私とジョシュアの視線が、絡まった。
ジョシュアは、決して視線を逸らそうとしない。
私は、寂しさと悲しさから崩れ落ちそうになっていた。きっと、支えを求めるような視線になってしまっている。
せっかくジョシュアが拭いてくれたのに、私の目から、涙が止まらない。
「……もう、楽になってくれませんか?」
ジョシュアの手の位置が変わった。私の頬に触れていた彼の手は、顎先に移動した。私が、彼から視線を逸らせないように。そのまま、唇を重ねられるように。
「アンリ王子を忘れてくれとは言いません。あなたの中にいるアンリ王子ごと、私に支えさせてくれませんか?」
私は、もう疲れていた。アンリを待ち続けることに。後悔し続けることに。娘に、アンリのことを聞かれることに。
でも、ジョシュアの言葉に頷けば、楽になれるかも知れない。アンリのことを忘れなくてもいいと、彼は言ってくれた。それなら、アンリを愛したことを、美しい思い出にできるかも知れない。胸を締め付けるような後悔ではなく。
体が小さく震えていた。まるで、何かを恐れているように。それでいて、どこか安堵するように。
私は、震える手を動かした。ジョシュアに向かって。
ジョシュアの唇が、私に近付いてきた。
◆
それからわずか二ヶ月後。
国境付近の戦いは、あっさりと決着がついた。
ノース王国側がサウス王国側の国境警備を壊滅させ、圧倒的に優位な条件で、休戦協定を結ばせた。
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