時を託す

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近所に住むハナさん(87)のおうちの仏壇には、傷だらけで錆や汚れも目立つ腕時計が一本、置かれている。10年前に他界した旦那さんの物だそうだ。 「会社を定年退職する間際に、私が買ってあげた時計なの。それからずっと、死ぬまで、あの人の腕にあったの」 最初は、「これから退職金と年金で生活する事になるのに、なんて無駄遣いを」と渋い顔を去れたそうだ。けれど、「せっかく腕時計として買った物を、置時計として使うのは良くない」とか何とか言いながら、壊れては直し、汚れては磨き、と世話をして、最期まで大切に使ってくれた時計なのだと言う。 「でも、ほら。いくら生前のお気に入りの物だって言っても、棺に腕時計は入れられないでしょう? でも、お金に替えるのは、何だかあの人や、あの人との思い出を切り売りするみたいで申し訳ないし、そもそも、こんなに古くっちゃ、引き取ってもらえないでしょうし。だからって、ゴミに出すのはもっと嫌だしねぇ」 「――でしたら、この時計、いただいても? 私が大切に使わせていただきます」 そう言うと、ハナさんは笑った。少女のような、可憐で嬉しそうな顔をして。 「それじゃあお願いします」 ――ああ、良かった、これで心残りはないわ。 生活の痕の上に薄く埃が積もっている廃屋の中、託された埃まみれの腕時計を手にした僕は、そっと目を伏せた。 ハナさんと、その心を悼む気持ちで。 20231001 鳥鳴コヱス
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