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人魚の話
昔々、あるところに二人の人魚がいました。二人は兄妹です。
兄の名前はレイン・アクアライン。妹の名前はブルー・アクアライン。
二人はとっても仲良しな人魚でした。なぜなら、他の人魚は別の世界へと渡って行ってしまったからです。残された二人の人魚は唯一の同胞として互いを愛しました。
レインにはブルーしか、ブルーにはレインしか残されていなかったのです。
成長したレインは二本足を得て陸へあがる術を知りました。彼は外の世界を求めて歩き回り始めたのです。
対してブルーは水の外へ出ようとしませんでした。彼女は空に浮かぶ赤い月を恐れていました。
水の中なら人魚は何処までも逃げることができます。誰よりも速く、誰よりも賢い。水の中で人魚を負かすことのできる存在など、ドラゴンくらいしかいません。水の中であったなら。
水から上がってしまえば人魚はどうなってしまうのでしょう。彼らの世界とも言える水がなくなってしまったら、彼らは何処へいくのでしょう。
水面から顔を出した時、人魚には常にそんな不安がつきまとうのだそうです。ブルーは特にそれが強かった。
彼女は獣よりもバケモノよりも、なにより得体の知れないすました顔で空へやって来る赤い月を恐れました。だから決して陸へあがることをしなかったのです。陸には人魚に味方をする逃げ場が何処にもないのですから。
そんな妹を見てきたから、レインは陸へとあがったのです。兄は怯え続ける妹を哀れだとでも思ったのでしょうか。可哀想。しかし彼にとって彼女は可愛想な存在。
直接彼に聞いたのではありません。しかしそうであってほしい。彼らは唯一の兄妹なのですから。
陸へあがったレインはどうしたのでしょうか。彼は森をさまよい、吸血鬼やエルフと出逢いました。三人はやがて扉を潜り、街へとやって来ます。学校へ通い、知識と経験を積み大人になりました。
その間彼は一度も帰らなかった、ということもありません。意外と妹思いの人魚だったのです。ふふっ、意外と、ね。
彼は街で色んな物を探しました。櫛や石鹸、アクセサリーにお菓子。どれも水の中で手に入れることのできない物ばかり。それらを手に入れると、彼はいつも可愛らしく包装して帰る日まで隠しておくのです。
全て自分の帰りを待っている妹への贈り物です。ある時、彼は不思議なキャンディを見つけました。深い青色、一瞬で溶けて消える味。妖精の作るアクアマリンの宝石キャンディです。
彼は一口食べてそれをとても気に入りました。なにより色に一目惚れしたのでしょう。妹のブルーへ贈るために、彼はそれこそバケツ一杯のアクアマリンを買い占めました。
街から森へ続く門を潜り、レインは妹の待つ湖へと帰ります。カバンの中には本に混じって青い宝石キャンディたちが眠っています。
それはもう軽やかな足取りだったことでしょう。なんと言っても妹と同じ名前の色をしたキャンディです。きっとブルーは喜びます。
レインはコートに雨を纏いながら帰路へとつきます。今なら想像できません、そんな彼。
今のレイン・アクアラインは水を凍らせてしまったかのように冷たい方です。笑うことなど、もう何百年も見たことがありません。
それでも彼は優しい方だったのです。いいえ、今もきっと、その表情の下にはかつてのように柔らかな優しさを揺らめかせているのでしょう。
彼の笑った姿を、私は何百年も見ていません。もう、何百年も。
そんなこと、あなたにとっては関係のないどうでもいいことでしょう?
レインは妹の待つ湖へと帰りました。霧が辺りを覆い始めた時にはもう夜です。
彼は一度もカバンを開けませんでした。妹と一緒に食べようと、キャンディを食べたのは店で購入した時の最初の一口だけです。
彼は妹の喜ぶ顔を思い描きながら慣れないその二本の足で歩き続けました。
彼が湖に辿り着けばブルーはすぐに水面へ上がってきました。呼んでもいないのに彼女には兄の足音がわかるのです。
レインはカバンを放り出して水に飛び込みます。
彼も、彼女も、人魚なのです。再会は水の中でありたいのでしょう。
二人に人魚は水の中をくるくる回ります。
空には大きな赤くない月。正真正銘本物の月です。
人魚の兄妹は再会を心から喜びました。
そして、レインはカバンを開くのです。
数々の贈り物。それと一緒に語られる地上の話。ブルーは目を丸くして聞き入ります。そんな彼女を見てレインは穏やかに微笑むのです。
周りには誰もいません。二人の逢瀬を邪魔する者など、その森にはいないのです。もちろん、水の中にだって。
霧が消えた頃、レインは最後の贈り物を出しました。青色キャンディです。宝石のように輝くキャンディにブルーは興味津々です。アクアマリンの名前を聞いた彼女はこう言いました。
「私たちのために生まれたキャンディみたい」
人魚のために生まれたキャンディ。そんなことあるはずないでしょう。キャンディは全ての命の上に降り注ぐのです。ですがレインは言うのです。
「この青色は人魚への贈り物だよ」
二人は月明かりの下でキャンディを頬張りました。口の中でカラコロカラコロ鳴らしながら、目蓋を閉じてうっとりと青色に浸りました。
キャンディはあっという間に溶けて消えました。もっと欲しいと強請る妹の口に兄は舌を絡ませて宝石を押し込みます。兄が欲しがれば妹は焦らすように唇で挟んだ宝石を取られないように押し付けます。
まるで酔ってしまったかのように。
アクアマリンの宝石キャンディの味は深く沈む味。食べる度に沈むその味は人魚にとってとても懐かしかったのです。
私たちの知らない水の底。いいえ、おそらくもっともっと深い場所に彼らの世界はあるのでしょう。人魚だけの世界がどんなものか、私たちは知らないのです。
アクアマリンはその世界を彼らに思い出させたのです。
この世界でたった二人きりとなってしまった人魚たちは、寄り添いながら果てしなく永い時間を生きていくことしかできません。たった二人きりで。
この世界は人魚にとって生きにくいでしょうか。死んでしまいたいと思うほどに生きにくいでしょうか。
それは、私たちが思うそれ以上に辛いものなのでしょう。渇き涸れたその身は水を、潤いを求めてしょうがない。
この世界は生きにくいのです。私たちでさえ喉がかわきます。それでもなんとか生きていけます。だって多少は我慢できますもの。
でも人魚は違います。私たちが空気を吸うように、彼らには水が必要なのです。喉がかわいた瞬間にはもう彼らは死にそうになっています。死にそうになってまでこの世界にいる必要なんてありません。居たくなんてありませんでしょう? それでも彼らはこんな世界にいるしかないのです。
辛いでしょう。苦しいでしょう。それでも彼らは自分たちの世界へ帰ることができないのです。もう、何処にも人魚だけの世界はないのですから。
彼らはキャンディを飽きることなく舐め続けました。
そして深く深くへ落ちていくのです。水の底へと。
二人は寂しいのです。そして悲しい。
人魚の世界はもうないということに涙している。
どうか考えてください。人魚が世界を渡る理由を。
兄が陸へとあがり、泳ぐことなく歩き続ける理由を。妹が陸へあがらず、閉ざされた湖に居続ける理由を。
どうか考えてください。人魚である彼らがいる理由を。
彼らは二人きりの「アクアライン」なのです。
人魚の姫も、人魚の王子も意味を成しません。運命の嵐は訪れない。
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