【小川康雄】 Ⅱ

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 職場や周囲に不審感を抱かれないよう、康雄は決行当日にも当たり前のように仕事を入れた。7日は土曜日だったので、午前中の1コマだけ授業をすれば、あとは軽い事務作業だけで帰宅できる予定だった。車を使えば刑務所までは1時間もかからない。大丈夫、時間の余裕は十二分にあるはずだ。そんなことを頭の片隅で考えながら、康雄は最後の授業に入る。  だが、チャイムが鳴って生徒たちが席につくと、意外にも復讐のことはほとんど頭に上らず板書と解説に集中することができた。何度も機械的にこなしたカリキュラムであっても最後だと思うと愛着が湧くのか、もしくは自分で思っている以上に自分は教師という仕事を気に入っていたのか。どちらなのかは康雄自身にもよくわからなかった。  再びチャイムが鳴って授業が終わる。ガヤガヤとした教室の中、いつもと同じようにホワイトボードを消す。そんな彼に、いつもと同じように加保が声をかけて来た。 「どうしましたか、山野さん?」 彼女の質問に答えるのも今日が最後か、わずかな感傷を感じながら康雄は尋ねる。だが、彼女から返ってきた言葉は予想していたものとは違った。 「小川先生、今日の16時半から面談できませんか?」 康雄の通う予備校では授業の他に各講師に面談の予約を入れることができる。授業後のわずかな時間帯だけでは解決できない質問や、勉強法の指導などを受けることが目的だ。 「すみません。その時間、私は退勤する予定になっているんです。別日に改めて予約を入れるか、他の日本史担当の先生にお願いしてください」 当然、講師のスケジュール次第では希望の日時に予約を入れられないこともある。康雄は元々勤務時間外の残業をしない主義だが、今日は尚更だった。だが、加保の次の言葉が彼をぐらつかせた。 「すみません……実は日本史の質問じゃないんです。無茶なお願いだってこともわかっています。でも、話を聞いてくれませんか? わたしの家族がいなくなっちゃうかもしれないんです!」  康雄は頭を抱えた。食い下がってくる彼女の必死な口調や今にも泣き出しそうな目に絆されたわけではない。彼が狼狽えたのは『家族』という言葉に対してだった。家族がいなくなることの虚しさや後悔は痛いほどよく知っていた。だからこそ、憎悪を燃やして人殺しにまで身を墜とそうとしているのだ。  彼女の事情はまだわからない。だが、今まさに同じ苦しみへと転げ落ちようとする教え子を見殺しにしてしまえば、復讐の前に心残りができてしまう。そんな状態であの男の家族にきちんと刃を向けられるのか、康雄には自信がなかった。 「ごめんな、由加」 加保に気付かれないよう口の中で小さく呟いた。渡瀬が塀の外に出てくるということは、いつでも彼に復讐を遂げるチャンスがあるということだ。それが必ずしも今日である必要はない。 「わかりました、その時間に面談室で待っています」 「本当ですか? ありがとうございます!」 何度も頭を下げる加保に軽く会釈をして、康雄はそそくさと荷物をまとめる。廊下に出ると同時に軽く目をつぶった。瞼の裏に現れた由加は、いつもと同じように表情のない目でこちらを見返すだけだった。
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