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満月のうさぎ
満月の夜には、生け贄を捧げよ。
さすれば汝の願いは叶うであろう……。
空き家なのをいいことに、僕を連れてここに住みついた女。
男が来る時は僕を檻の中に入れて、絵本で見たオットセイの様な声を上げて男と裸で遊んでる。時々女の腹は膨れ上がって、いつの間にか凹んだ。
何度か繰り返していると、お風呂場は入っちゃいけないところになって、仕方ないから、僕は近所の公園で臭い体を洗った。
そのうち、歯が欠けまくってる茶髪の男が出入りする様になって、白い粉が入った小さな袋を二人で舐めて遊ぶ様になった。また、女の腹は膨れた。
いつものように、いつの間にか腹が凹んだ頃、男は慌てた様子で黒い大きなバッグを抱えて飛び込んできた。二人はきゃあきゃあ言って、またベッドの上で裸で遊び始めた。
夢中になっている間に、僕はそのバッグを奪ってやった。
今日は満月。
きっとこのバッグを奪えば女は困る。二人も生贄にできれば、お月様は喜んでくださる。そして、願いを叶えてくださる。何かのチラシに書いてあった。
僕たちを見つけて下さい。見つけてください……。
先月より新宿東署の生活安全課に勤務することとなった市川静馬は、珍しく定時で上がり、ゴールデン街の入り口で恋人が営む小料理店を目指し、トレンチコートの前を搔き合せるようにしながら歌舞伎町の裏通りを横切っていた。
10月になった途端、こうも冷え込むとは……静馬は肩を窄めた。
元々は警視庁捜査一課性犯捜査班にいた。警部昇進を機に田無署の生安課の課長職を経て、現在の新宿東署生安課の課長職に至る。
もう45になろうというベテランだが、日舞の家元であった継父の元で、少年時代に『伝説の女形』と呼ばれた程の艶気は健在である。
歌舞伎町の区役所通りを突っ切って、天の川のような遊歩道を渡れば、美味しいチキン南蛮を用意して待ってくれている恋人の元に辿り着ける……。
「満月か」
木に覆われた遊歩道よりも、花園神社の境内を突っ切って、風流にでも浸ろう……区役所側から入り込んだ神社の玉砂利の上に立ち、静馬はちょうど雲が切れて顔を出した満月を見上げた。
恋人が店を閉めたら、ここで一緒に眺める約束をしている。
煌々と、しかし……淵が少しぼやけ、恋人と眺めるには、幻想的というよりは不気味と感じるのは、刑事の性ゆえか。
黒々とした墨汁の一滴が月に落とされたかのように、黒い模様がぐるぐると月の表面を覆い始めた。
想像を掻き立てすぎたか、静馬は背中を襲う寒気に思わずトレンチコートの前合わせを搔き抱いた。そう言えば、日暮れ後は神社をお参りしてはいけないと、昔誰かに言われた気がする……と、何気なく本殿を振り返った。
「え……? 」
こんな寒風の下、半袖のTシャツと半ズボン姿の子供が、ぼんやり立っていた。小学校低学年か、かなり痩せている。服も汚れており、足元が……その子供は靴を履いていなかった。
「おい、風邪をひくぞ」
思わず静馬はコートを脱ぎながら駆け寄り、その子の体を覆った。
遠目にも、この子が尋常な様子ではない事がわかったからだ。
虐待……間違いない、伸び放題の髪、全身から立ち上る臭い、サイズの合わない服、そして、裸足。
「おじさん、いちかわしずまって言うんだ。ケーサツの人だよ。お家の人はどうした? 」
膝立ちになって目線を合わせる静馬を、子供はうっとりとした表情で見つめていた。
「おじさん、すごくきれい。すぐわかったよ、お月様のお使いだって」
45のオヤジが綺麗と言われても……静馬は咳払いをして、子供の手を取った。
「名前は? 」
「んん……うさぎ」
「うさぎ? えっと、男の子、だよな? 」
「ちんちん、ついてる」
「そっかそっか。じゃ、おじさんとケーサツに行って、パパとママに迎えにきてもらおう」
「違うの、あいつらは、生贄なの。だから、弟と妹を見つけて」
「いなくなったの? 」
「違うの。おうちにいるの。でもね、見つけて欲しいの」
背中にぞくりと震えが走った。静馬はすぐに公用の携帯を取り出した。
「お家の住所、言える? 」
うさぎと名乗った少年は、住所を正確に答えた。
「西新宿8丁目、波山荘、6号室……誰か向かわせてくれないか……ああ、何もなければそれでいい。部屋の住人に必ず職質かけてくれ」
少年に背を向けて、静馬は少年が答えた住所に制服警官を向かわせる様に指示を出し、立て続けに、少年係の部下に児童相談所とコンタクトを取る様にも伝えた。
「じゃ、おじさんをそこに案内して……あれ」
そこに最早少年の姿はなかった。
満月からスポットライトの様に光が降り注ぎ、玉砂利を照らしている。
「満月の、うさぎ? 」
きつねに抓まれたならわかるが……抜け殻の様に丸まっているコートを拾い上げ、静馬は首をひねった。
一緒に月を見る約束をしていた恋人の加津佐に断りの電話を入れ、静馬はそのまま来た道を引き返した。
西武新宿駅の脇の大ガードを通り抜けようとした時、けたたましく携帯が鳴った。
「課長、加川です。出ました。課長に指示された部屋から嬰児の遺体が……」
静馬は思わず、ああ、と嘆く様な声を上げて足を止めた。
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