朧うさぎ

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朧うさぎ

   ゴールデン街の入り口でひっそりと営まれている小料理屋『かづさ』。  店主の松下加津佐(まつしたかづさ)は、37歳にして元は銀座の割烹店で修行をした料理人で、低料金だが手の込んだ本格的な和菜と、自ら試飲して揃えている銘酒とが評判であった。たった一人で切り盛りしているが、185㎝の長身に着物、前掛け姿も涼しげで、柔和な笑顔での客あしらいは特に女性客に受けていた。  7席しかないカウンターの最も奥の席は、いつも『予約席』のプレートが置かれており、プレートがない時は、四十がらみの艶気に満ちた長身の男が鎮座し、美味しそうにチキン南蛮を頬張っているのだ。    その男・市川静馬は、今日はチキン南蛮を食べに帰ってはこなかった。    掃除とレジ閉めを終えて、加津佐は一人、店の外に出た。  この店は夜10時には閉めてしまうが、ゴールデン街はまだまだ宵の口とばかりに賑わっている。昼間はテーマパークの様でもあるその狭い路地は、夜には幽玄の舞台に姿を変える。  下駄を鳴らし、慣れた足取りで花園神社に行き、加津佐は空を見上げた。  満月か。  今にも落ちてきそうにおどろおどろしいまでの光を放つ丸い月。  あまりロマンチックとは言えない御面相だと、加津佐は苦笑した。  この月では、静馬と約束していたお月見も怪談話で盛り上がりそうだ。 「うさぎって言うより、(りゅう)だな」  灰色の雲の筋が月に絡みつき、光の表面にトグロを巻いた。  その加津佐の袂が、ちょいちょいと引っ張られた。  何かの枝にでも引っかかったかと見下ろせば、そこには小学生くらいの少年が立っていた。汚れたTシャツに半ズボン、しかも裸足である。  何と聞けば良いのか分からずに戸惑っている加津佐に、少年はニッコリと笑った。 「あなたもきれい……でも、傷、あるね」  加津佐は咄嗟に羽織っていたストールの上から胸元を押さえたが、気を取り直す様に少年に向き合い、目線を揃える様にして膝を折った。 「君も、傷だらけだ。ぼうや、どこの子? 僕のパートナー、刑事さんなんだ。とても優しい人だから、相談してみよう」 「知ってるよ。さっき会った」 「え、静馬さんに? 」  少年が月を指差した。 「じっとあの月を眺めていたよ。おじさんが想っていたのはあなただって、すぐにわかった」  少年は加津佐の胸元に触れた。 「何でこんなに傷だらけなの」  加津佐の体には、縦横無尽に赤蚯蚓(みみず)の様な傷跡が残っている。親がヤミ金に手を出し、借金のカタに13歳の加津佐を売ったのだ。ヤクザの店で働かされ、とても口にできない様なこともさせられた。やがて客に助けられ、20歳で調理師免許を取り、銀座の料亭で必死に働いて金を貯め、今の店を持ったのだ。 「あのおじさんは、その傷も知っているんだね」 「そうだよ。全部、知っている。だからぼうやも話して。こんな僕だからこそ、できることがあるかもしれない」  少年は涙を浮かべた瞳で悪戯気に笑った。 「大丈夫。もう、見つけてくれたから……ありがとう」  そう言って、少年は神楽(かぐら)殿の方へ駆けて行ってしまった。  月明かりの下から消えた少年の姿は、これほどに都会のネオンが降り注ぐ境内でも追いかけることができなかった。  見失いながらも、神楽殿に歩み寄り、朱塗りの木製の枠に手を置いて、伸び上がる様にしてその空洞になっている床下を覗き込んだ。  加津佐は息を呑んだ。
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