薬屋夜海月。

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 気付けばすっかり冷めてしまい、青から紫に変化したハーブティーに驚いて、時間の流れで色が変わるのだと教えてもらった。  こうするとピンクにも変わるのだと、三日月形のレモンを絞り入れ、その魔法のような変化を楽しんだ。  ブルーマロウはその変化から『夜明けのハーブ』とも呼ばれているらしい。ますますこの不思議な夜の、この浮世離れした空間にぴったりだ。 「あ、もうすぐ夜が明けますね……鏡花さん、まだお時間大丈夫ですか?」 「えっと……実は私、結婚前提に同棲までしてた彼に、浮気されてたんです……それで、つい飛び出してきて。朝まで家に帰りたくなくて……」 「……そうだったんですか……それは許せませんね! ええと、それじゃあ婚約者さんが二度と他の子に目移りしないように、視力を下げるお薬とかご用意しますか!?」 「……、やっぱり物騒な薬なのでは……?」  こよるさんが両手を拳にしてぶんぶんと揺らす度、一緒になってソファーが揺れる。  まるで自分のことのように憤慨する彼女に、思わず笑ってしまった。  そして、こんなに見るからに訳アリでぼろぼろの私に、自分から話すまで何も聞かずにいてくれたのだと、今になってようやく気付いた。 「あー……」 「……? 鏡花さん?」  あんなにも悲しくて苦しかったのに、彼の顔を思い出すだけで壊れてしまいそうだった心が、この不思議で心地好い空間で、少しずつ癒されたのだろうか。  思ったよりも落ち着いた状態で、言葉にして気持ちを整理することが出来る。 「正直、問い詰めたら逆ギレされて、もうこの人とはやっていけないなぁって……。というか、浮気相手が私の後輩なんですよ、有り得なくないですか」 「し、修羅場……」 「あいつ、昔から都合悪いとすぐキレて……それでも好きだったから、いつも私が先に折れて、宥めて、何とかやって来てたんですけど……もう限界」  出会ってからおよそ五年の月日を思い返すと、やっぱり目の奥がじんわりと熱くなる。俯くと、薬指に居座ったままの真新しい婚約指輪が、鈍く光って見えた。 「えっと、じゃあ、悲しい夜の記憶を閉じ込めてなかったことにする『夜の帳カプセル』とか……零時ぴったりに口に入れると新しい恋を引き寄せる『シンデレラドロップ』とか……!」  涙の気配に気付いたのか、慌てて立ち上がり商品棚に向かおうとする彼女の手を咄嗟に掴み、ソファーに座り直させる。  あんなにも冷たかった私の手は、今やすっかり温もりを帯びていた。 「確かにここの薬は魅力的だけど……私、無一文だから」 「うう……ならツケで……」 「軽率に借金させようとしないでください」 「だって……鏡花さんみたいに夜に迷って傷付いた人を癒すのが、わたしたち『薬屋夜海月』のお仕事です……」  仕事と聞いて、改めてここが店だったことを思い出す。  あれから何時間も経ったのに、やっぱり私以外にお客さんは来ない。  きっと普段からそうなのだろう。この街にはよく訪れる私も、今日はじめて店の存在を知ったくらいだ。 「鏡花さん、わたし、何かお役に立てませんか……?」  売り上げがないと言うよりも、ただ私のために何も出来ないことを憂い落ち込んだ様子の彼女に、一息吐く。  隣に座るどこまでも優しい少女に、私は身体ごと向き合った。 「こよるさんは、もう十分、役に立ってますよ?」 「え、でも……お薬は何も……」 「だって、ハーブティーも薬みたいなもの、なんでしょう?」 「あ……」 「ブルーマロウは『夜明けのハーブ』……確かに私の心に、夜明けをもたらしてくれたんです」  彼女が教えてくれた言葉を、私はそのまま返す。ここにある薬はどれも不思議で魅力的なものだったけれど、あのハーブティーだって負けていない。  何しろ、夜に凍えた私を溶かす、愛情がたっぷりのスペシャルドリンクなのだ。 「それに、朝まで寒さを凌げる温かい場所を与えてくれた。孤独を和らげる優しいぬくもりを、時間を忘れさせてくれる楽しい時間を……ひとりぼっちの暗闇を照らす光を……全部、こよるさんがくれたんです」 「鏡花さん……」 「本当に、ありがとう。こよるさん。私、あなたに会えてよかった」 「いいえ……わたしの方こそ、ありがとうございます」  枯れることなんてないと思っていた涙は、もう溢れてはこなかった。  私は心の中で彼に別れを告げて、冷たくなったピンク色のハーブティーを一気に飲み干す。  蜂蜜とレモンの入った甘酸っぱくて仄かな甘さと清涼感のある味は、涙の終わりにぴったりだ。  ガラスの向こうの外の世界が、次第に明るくなってきた。もうすぐ、永遠に来ないと感じた朝がやってくる。 「あ、そうだ。こよるさん、よかったらこれ、受け取ってください」 「え、これって……鏡花さんがしてた指輪……です?」 「はい。婚約指輪です。たぶん、そこの質屋で売れるはずなんで」 「えっ!?」  結局一晩中付き合わせてしまったのだ、せめてものお代にと、薬指から外した指輪を握らせ、全力で遠慮する彼女に無理矢理押し付ける。  売れば多少のお金にはなるはずだ。彼女の優しさに値を付けるなんて失礼だとは思ったけれど、お茶代と今夜の売り上げの足しにでもして欲しい。 「私なりのけじめと、感謝の気持ちです。売るのも負担なら捨てて構いません……でも、こよるさんに受け取って欲しいんです」 「……、わかりました……では、わたしがお預かりします。返して欲しくなったら、またいらっしゃってくださいね。あてもなく彷徨う、無一文の夜にでも」 「あはは、もうそんな日が来ないことを祈っててください」 「ふふ、そうですね」  私はこよるさんに見送られ、晴れやかな気持ちで店を出る。冷たく澄んだ空気を吸い込み、眩く白んでいく空を見上げて、大きく伸びをした。 「さて……帰って荷造りだ!」  辛く苦しかったはずの夜。けれど今は、終わりゆく夜に一抹の名残惜しさと寂しさを覚えながら、それでも迎える朝への期待と、新しい始まりへの希望に手を伸ばす。  一歩踏み出すための強さを、心癒すぬくもりを、あの優しい夜の片隅で、確かに貰ったのだ。 「あなたがもう、夜に迷うことがありませんように」  後ろから、祈りの声と共に扉の閉まる音がする。  私は振り返ることなく、生まれたての朝に向かって歩き始めた。
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