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「さあさあ、まずは座って、自己紹介からはじめましょう!」
「はあ……」
外のネオンの眩しさに慣れた目には薄暗い店内、私は彼女が促すままに、店の隅に置かれたソファーに身を沈めた。
白いソファーは雲のようなふかふかの座り心地で、歩き通しで疲れきった身体を包み込む。もう立ち上がる気力さえない。
「改めまして、わたし、夜海月店員の『こよる』っていいます。よろしくお願いしますね」
「こよるさん……私は、朔間鏡花、です」
「わあ、素敵なお名前ですね!」
「……どうも」
正面に立ったこよるさんは、私の投げやりな反応も気にすることなく、お人形みたいに可愛らしい笑顔のままだ。
美しい彼女を前にして、なんとなく、惨めな自分の格好が恥ずかしくて居たたまれない。
街中を歩いている時には気にする余裕もなかったのに、私にまっすぐ向けられる視線が、やけに落ち着かなかった。
彼女は隣に座ることはなく、自己紹介を済ませると、握手のように手を揺らした後するりと指先を離す。
離れた温もりが何となく名残惜しく、少しだけ不安に感じたけれど、身体を支えてくれるソファーのお陰で何とか耐えられた。
「春先とはいえ、夜はまだ冷えますもんね。鏡花さん全身ひえひえですし、温かいお茶をご用意します。苦手なお味とかありますか?」
「あ……いえ。あの、すみません、私、今お財布なくて……」
「そうなんですか? ふふ、お茶くらいでお金取ったりしませんよぉ。わたしもちょうど休憩しようと思ってたんで、深夜のティータイムに付き合ってくれると嬉しいです!」
ただの水にも高額を設定しているような店が多い中、随分と良心的だ。
けれど「いらっしゃいませ」とわざわざ出迎えたからには、休憩なんて嘘だろう。騙され傷ついた心にその優しい嘘がじんわりとしみて、私は素直に頷く。
「……なら、お願いします」
「ふふ、ありがとうございます! 少し待っていてくださいね」
柔らかそうな長い髪をほうき星のように靡かせて、彼女が暗い店の奥に行ってしまうのを見送った後、私は改めて辺りを見回す。
全体的に濃紺と白のコントラストを基調とした落ち着いたカラーリングに、木製の棚が壁沿いに並んでいる。
どこか甘い植物のような香りは独特で、お洒落な間接照明の灯りは夜空の星のようで美しい。
狭くてほんのり薄暗い店内は、隠れ家的な印象だった。
私以外に客も居らず、一見営業しているのかもわからないような雰囲気。
海の底のような静けさをした、夜の忘れ物のような、そんな場所。
ノイズにしか聞こえなかった街の喧騒も、ここには届かない。
まるでここに居ていいのだと決められた水槽の中のように、落ち着く空間だった。
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