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十年前、鈴木は頭の病気をして口が不自由になった事。そしてそれから様々な仕事に就いたが長続きせず、最近も2ヶ月働いていた工場を自ら辞めた事を、吃りつつ語った。
前の工場を辞めた理由は父親の末期癌が判明した事だが、本当は工場の仕事に付いて行けず、また職場の人間関係も良くなく、“その場”に“居れなくなった”事、また“居たくなかった”事も話した。
鈴木は、工場を退職後、初めて誰かに話せた気がした。
何故か、すっきりした。
先々月の退職からモヤモヤしたものをやっと吐き出せた気がした。
そして思い出した。
退職間際、社内で産業医師の面談があり、鈴木はそこで医師に対し、溜まっていた悔恨と憤りを吐露した。その時と似ていた。
鈴木はストレスを吐き出す自分を見て、己がこの会社に“いるべきではない”と悟った。
産業医は、この吐露を会社幹部に告げ、それでおそらく退職を告げた鈴木を留意したのだろうが
、その時はもう遅かった。
「こ、このへ、変なく、口調は手術の影響で
で、も、もう十年以上、こ、こんなか、感じで、です、す。こ、これで前のし、仕事でも、ば
バカにさ、されて、きましたよ…」
そう話の最後に言いながら、鈴木はうんざりしていた。
もう、ここ十数年、鈴木はずっと“この声”の事を気にしていた。人と会うと、必ずこの声の事を指摘され、さらに『頭の病気』とか『手術』と言うと、露骨に同情される。そして小馬鹿にされ、面倒くさがられた。
だから、話を、言葉を出したくなかった。
皆、あの工場と同じ対応をする。
同情し、バカにして、関わろうとせず、排除しようとする。
それに抵抗すれば、それを『甘さ』とか『自己責任』、さらに『仕方ない…』で片付ける。
頭に来るが、それさえも『お前が悪い』と言ってくる。
そうでなければ、接触をさけ、逃げる。
鈴木は高林と上島の表情を観察した。
二人とも驚いていて、そして憐憫の表情になった。
(…コイツらもか?)と鈴木は内心でため息を吐いた。そして『仕方ない』とも思った。人は誰でもこんな表情になる。そして関わらないようにする。
鈴木はもう、それで良かった。
しかし、対面の上島は別の事が気になっていた。
「…あ、あの、失礼ですが、お父様の状態は?」
鈴木の父親は、去年、狭心症を患い、身体ペースメーカーを入れ、約半年前に末期リンパ癌と診断された。転移は見られてはいなかったが、今回は前立腺に癌があるらしく、近々、また検査入院する。
狭心症の為、血圧剤を服用する父親は長時間の手術が難しく、今度の検査に寄れば入院もあり得た。
上島はさらに哀れそうな目線を鈴木に送った。
「…3つも。な、何か、保険とかは?」
もちろん申請している。生命保険などで薬代、検査手術費用、今後の入院費を捻出するつもりだ。息子の鈴木が無職でなければ、手厚い介助もできるが、彼にその余裕は無い。
「お父様は、今は?」
「じ、自宅でせ、静養中です。な、何かあれば、ば、すぐに病院へい、行けるように。ほ、本当は、お、俺が、ち、近くにいたらよか、良かったんだけどど」
鈴木は週に何回か、市内に住む両親の元を訪れていた。
「す、鈴木さん、失礼ですけど、お仕事は探し中ですか?」
鈴木は頷いた。そして一向に成果は上がっていなかった。
「ならば、失業給付とか申請しました? 確か、『介護を理由として退職』した場合は、少し優遇されるはずですよ?」
鈴木はもちろん知っていた。
そして職業安定所に退職の際の理由を告げていた。
だが、その審査は通らなかった。
鈴木の父親は『障害者』ではあったが、まだ介護かどうかが不明まだ分からない。
自力では何とか歩行が出来た。車イスには乗りたがったが、常用はしていない。
また、鈴木自体、父親とは同居していなかった。
それは「かなり微妙」で「申請対象にはなりにくい」らしい。
鈴木は両親の“老老介護”を心配していたが、確かに『父に今すぐ介護が必要か?』と言われたら、違うのかもしれない。
狭心症を患う父の状態はかなり心配だが、前立腺癌の検査や父に“要介護”の認定がなされる前に、新しい仕事を見つけたかった。
先々の事を考えると、もう少し手厚いサポートが欲しくもある。たが、ここまでが限界に思えた。
また本当に父親を思っているなら、前の工場の留意に応えて残留しているはずだ。
そうしなかった鈴木には、新たな仕事に就く事が一番のサポートだ。
しかし、こんな口が不自由な40過ぎの独身を雇う会社は無い。しかし、もうあの工場はたくさんだった。
「…それなら、お父様の検査する病院にご相談、してみたら?」
冷たさのなくなった野菜ジュースのコップを見ながら、上島が言葉を放った。
「び、病院に?」
「そうです。病院って、入ると総合受付みたいなものがあるじゃ、ないですか?」
「あ、ありますね?」
実は鈴木は実家にいた頃、近くの病院に勤めていてよく知っていた。だが、金銭の相談ができるような受付があっただろうか。
上島は続けた。
「たぶん、その近くに“入院受付”とか“入院相談”っていうカウンターみたいなコーナーがあると思いますよ」
なんとなくだが、あるような気がした。
「もし、お父様が要介護となっても、ならなくても手術、検査手術も含めてですけど…、何かしらその病院に入る事になるなら、“一番安く上がるやり方”を教えてくれるはずですよ」
「親父は、し、障害者認定、だ、だけは取ったんだ、だけど?」
そこで突然、高林が発言した。
「…実は僕のばあちゃんも認定をもらってまして」
二人は思わず、この高校生を見た。
「し、障害者の、の?」
鈴木が驚いて尋ねた。
「あ、介護認定っす。でもそれで少し補助が出て、大分楽になりました。全部、区役所の人がやってくれましたけど…」
「や、やっぱり、介護のに、認定は大きいか、か?」
鈴木はまじまじと思った。
だが、父親がそうなればいよいよ本格的に介護に時間を割かなければならない。仕事探しが難しくなる。
介護か、求職か。それをこの1ヶ月ずっと迷っていた。
上島はさらに続けた。
「…どうなるかは、相談しだいですけど、その障害者手帳とか、過去の手術歴、心臓の機械の証明書とかで受ける手術を決めて、費用や保険の出し方とかも教えてくれますよ。お父様、何歳ですか?」
鈴木の父親は今年で77歳になる。
「こ、後期高齢者だよ。…こ、高額療養費の、の、補助?」
「高額療養は、1度支払ってから、建て替えという形で“戻し”があるので、注意した方が良いですね。まずは結構掛かりますし、すぐに還付はされないんで」
「上島さん、やけに詳しいですね?」
黙って炭酸を飲んで聞いていた高林が尋ねた。
鈴木もそれが気になった。
上島は恥ずかしそうに、もう冷たくないコップを両手で挟むと、小さな声で言った。
「私、ずっと病院の事務で働いていました…」
今度は上島が自らの話をする番だった。
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