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三人
JR浜松駅の北口を出て、目の前にあるエスカレーターを降りたら、すぐに噴水がある。
吹き抜けになっているその場は多くの人々が行き交っている。
その流れをぼんやりと眺めている男がいた。
2023年の9月の半ば。
台風が近付いているらしく、息の詰まるような曇りの日で、蒸し暑い空気が吹き抜けになっているその場所に流れていた。噴水からの冷たさは近付いてみないと感じられないほどだった。
男の状況は最悪だった。
先月、仕事を辞めた。金属加工工場を退職した。年齢は既に45歳である。独り暮らしをしていて、未婚。所持金は財布の中の数千円と、銀行に残る八万円。
どうにもならなくなりそうだった。
そして、先月に離れて住む父親が倒れた。
末期の癌だった。
去年、狭心症を患い、心臓にペースメーカーを入れている父の体調はかなり良くなかった。
急な治療が必要となるその父に、男は仕事を辞める事を告げられずに、彼は会社を退職した。
そして、先月働いた給料のほとんどは父の治療費に回した。
今月中に新しい仕事に就かないと、彼の生活が破綻するだけでなく、父親やそれを看病する母も破滅する。
そんな彼は、アクトシティ内の職業安定所に2週間通い詰めたが、結果は乏しいものだった。
彼は悲歎していた。泣き叫びそうだった。
(…俺が、何で)と男は思っていた。
会社を辞めたのは自分自身である。
中途採用された工場の仕事が彼には上手く覚えられず、周囲から度々注意されていた。本人も自覚しており、採用されてからの2ヶ月の間、その工程に付いていこうと必死だった。
だが、無理だった。
上司を散々怒らせ、自暴自棄になり、退職を口にしてしまった。
年下の同僚から文句を言われのも、精神的辛かった。
その時、ちょうど父親が倒れ、彼の心は折れた。
会社側は彼に留意を促し、別部署への転換を提案した。
だが、それを彼は受け入れなかった。
完全に気持ちが折れたのだ。
(もう、ここでは働きたくない)と心からから思ってしまった。
給料はかなり良かった。
だが、精神が参ってしまっていた。
そこで働く気持ちが失くなっていた。
働いていた彼はずっと思っていた。誰かに怒られる度に思っていた。
(なんで俺、こんなになったんだろ?)
『自己責任』という言葉が頭に浮かんでいた。
悪いのは、ミスをしたり、遅れてしまう自分である。
だが、彼は働く事自体が嫌いではなかった。むしろ好きだった。額に汗して、コツコツと行う仕事が嫌いではなかった。
だが、他人から注意されたり、指摘されると途端に激しく緊張した。(ミスをしてはいけない)と硬直し、余計にミスを重ねた。
それで周囲に迷惑をかけた。
そして、またミスを重ねた。
彼は追い込まれ、寝れなくなっていた。
毎日、夜中に目が覚め、仕事や自身の将来が不安になっていた。
そして、仕事が嫌になっていた。
そんな自分に自問自答していたのだ。
もっと上司や周囲と揉めたら良かったのかもしれないが、そんな事をしたら、工場に居られなくなる、という気持ちの切迫感が、彼から朗らかさを奪った。
そうして辞めてはみたものの、45歳の彼にすぐに仕事は見つからなかった。
この日も安定所の帰りに、何となく浜松の街中に行こうとここまで歩いていた。
馴染みの居酒屋で酒でも飲めば良いのだが、やはり気になっていたのは財布の中だった。その金銭事情が、彼の足をその場所で止めさせた。
そこが噴水だった。
彼の人生は行き詰まっていた。
行き交う人がいなければ、泣き叫びそうだった。
明後日、父親は全身の検査をする。
もしも、転移などがあれば、彼は就職活動どころではなく、介護に追われることになる。年老いた母一人では父の面倒が診られないからだ。
(…何でだよ)
彼の中には、悲歎も怒りが渦巻いていた。そしてそれは『自己責任』という言葉に行き着いてしまう。
それが彼のぼんやりとした表情には現れず、噴水の向かいの壁にもたれ、目の前を歩く人の流れを見つめるだけだった。
そして時折、噴水から流れ落ちる水の流れを見つめていた。
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