手紙

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「あら。何かしら……」  田崎響子(たさききょうこ)が二歳年上の夫・裕一郎(ゆういちろう)を亡くしたのは、もう二年も前のことになる。  死因は胃癌で、気付いた時には既に手遅れになっていた。  諸々用意が整い次第、すぐに病院に入院することとなったのだが、結局半年と持たなかった。  享年八十歳。  来る日も来る日も泣き暮らし、やっと夫がいない現実を受け入れられるようになり、多少なりとも笑顔を取り戻せたが、生来の泣き虫はなかなか治らないらしい。  今でもたまに亡き夫を思い出しては涙ぐんでしまう。    そんな響子がいつものように和室の掃除機掛けを終え、リビングに戻ろうとしたとき、ふと違和感を感じた。  よくよく見て気が付いた。  鴨居(かもい)に掛かっていた(がく)の裏から、何か白い物がほんのちょっぴり飛び出ていたのだ。  額に入っていたのは、夫・裕一郎が会社から貰った勤続三十五年の賞状だ。  裕一郎は学生時代、特に勉学もスポーツも目立った活躍はしていなかったので、『これが生涯、最初で最後の賞状だよ』と笑って飾っていたのを思い出す。  響子は椅子を持ってくると、バランスを崩して落ちぬよう用心しつつ椅子の上に上り、額の裏の物体を取った。  それは――封筒だった。  差出人は裕一郎。受取人は響子となっている。  切手は貼られていない。完全に私信だ。   額の後ろに隠しておいたのが、昨夜の地震でズレて現れたらしい。 「あの人、いつの間にこんなもの書いたのかしら……」  響子はリビングに戻ってお茶を淹れると、愛用の老眼鏡を掛け、発見したばかりの夫からの封筒を開いた――。 『愛する妻・響子へ。この手紙は、僕が病気を発見した当日に書いている。君は泣き疲れたのか、先に寝室で寝てしまった。……僕はもう長くは持たないだろう。黙っていたが、実は結構前から身体のあちこちに症状が出ていてね。本当に済まない。だが、今だけは、謝罪の言葉も、感謝の言葉も、さよならの挨拶も後回しにさせてくれ。代わりにここで、君にずっと言えなかった事を懺悔(ざんげ)させて欲しい』 「懺悔? はて、何のことかしら。浮気ができるような人じゃないし……」  響子は少しズレた老眼鏡を右手で元に戻した。 『僕たちは三丁目の中村さん――もう随分前に亡くなられたが、あのお節介おばさんが持ってきた縁で結婚した。僕が二十五歳。君が二十三歳のときのことだ。当然のことながら、あのお見合いが初顔合わせとなって僕たちは結婚したことになっているが……実は違うんだ』  響子が思いもしなかった告白に目を(しばたた)かせる。 『実はその二年前。君がまだ神泉(しんせん)女子大学に通っていた頃、僕は会社の行き帰りで偶然バスに乗っていた君を見掛けて一目惚れした。ほら、君の通う大学も僕の会社も同じ初倉駅(はつくらえき)がスタート地点だからね。以来僕はずっと君を見ていたんだが、小心者で声を掛けることもできずに毎日悶々としていた』 「あらあら、そうだったのね……」  響子がちょっと顔を赤らめる。 『まぁそんな訳で、中村さんに頼み込んで、僕と君とのお見合いを強引にセッティングして貰ったんだ。卑怯なことだとは思いつつ、どうしても君と一緒になりたかった。本当に済まない。もし天国でまた会えたら……好きなように(ののし)ってくれて構わない。でも、お陰で僕は本当に幸せだった。君と出会えたこと、そして恵理子(えりこ)を産んでくれたことに何度でも感謝の言葉を伝えたい。ありがとう。そして……また会おう』  響子は手紙を閉じると、丁寧に封筒に仕舞った。  コポコポとお茶を足す。  だが、なぜか響子の頬が緩んでいる。笑っているようだ。 「二年ねぇ……。残念ね、裕一郎さん。わたしの勝ちよ。なんたって私はもっと前からあなたを見ていたんですから」  響子は仏壇に行くと、お線香に火を点けた。  仏壇の中には、夫・裕一郎の遺影が飾ってある。 「ねぇ裕一郎さん。あなたは忘れていたようだけど、わたし、神泉女子高時代にあなたに助けられてるのよ?」  響子は手を振ってお線香の火を消すと、そっと線香立てに差した。   「夏のある夜、お友達と映画のレイトショーを観に行った帰り、酔ったサラリーマンに絡まれたわたしたちをあなたが助けてくれたのよ? あの時はまだあなたも東都大学に通う学生だったわ。その時からわたし、ずっとあなたの姿を追っていたの。あなたの目に留まるよう大学もエスカレーターで神泉に進んだしね。だから、あなたとのお見合いの話が来たときは、そりゃもう自室で密かに小躍(こおど)りしたものよ」  遺影を前に響子がフフっと笑う。 「実はね、裕一郎さん。先日病院に行ったとき、わたしも病気を見つけてね。持って半年ってところだって。嫁に行った恵理子には悪いけど、ようやくあなたの元に行けるわ。そしたらこの二年間淋しかったんだからって、沢山沢山文句言ってやるから覚悟してなさい。若い頃は死ぬのが怖かったものだけど、今は全く怖くない。むしろあなたに逢えることが待ち遠しいの。あっちでまた逢えること、楽しみにしているわね」  響子は亡き夫・裕一郎の遺影に向かってニッコリ微笑んだ。  END
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