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季節が巡って、春がやってきた。
待ち合わせ場所のコンビニに、美音の軽自動車が滑り込んでくる。倹約家の美音らしく、燃費がいいと定評がある車種だった。
助手席にすべき混み、運転席の美音に声をかける。
「どう? 運転慣れた?」
「全然です。毎回ほんとに怖いです。」
「怖がってるうちは事故らないわ。事故るのは慣れてきた時よ」
車が走り出す。美音は緊張の面持ちで前を睨み付けながら運転をしていた。運転技術どうこうではなく、人を乗せて走るのに慣れてないのだろう。
私はぼーと助手席の窓から外を眺めていた。桜並木に人が集まっている。家族連れで、友達同士で、皆、うれしそうな笑顔で桜を見上げていた。
そんな中で、一組のカップルに目が止まった。桜なんかそっちのけで、お互いの顔を見つめ、笑顔で語り合っている。彼氏の方が冗談を言い、彼女が口に手を当てて笑う。
「ねえ。美音。あなた、恋人とかいる?」
「へ? なんですか。いきなり」
美音が前を見ながら面食らったような声を出す。
「まあ、いることはいますけど。言ってませんでしたっけ?」
「言ってたっけ?」
「言ってたと思います。つきあい始めに報告しましたよ。確か、ナツさん、興味なさそうにふうんて感じでした」
「そうだっけ。ごめん。ほんとに興味なかったんだと思う」
「ナツさん、そういうとこありますよね。冷たいなあ」
冷たい、かあ。
「前にも言われたことあるわ。彼氏に」
「え、ナツさん、彼氏さんいらっしゃったんですか?」
美音がうれしそうな声を出す。
「どんな人ですか? 教えて下さい」
「死んだわ」
美音は黙った。私はまだ窓の外を見ているのでわからないが、きっと美音は気まずい顔をしているんだろう。美音が謝ろうとするのを遮るように、私は続けた。
「大学の時に出会ったの。バイト先が同じで、同い年で、すごく話すのがうまくて、いつも面白い話をしてくれた」
さっきのカップルはとうに見えなくなっていた。だが、桜並木は続いていた。次々と楽しそうな人たちが目に飛び込んでくる。
「大好きだったわ。私はこんなんだから、はたから見たら絶対そうは見えなかっただろうけど」
でも、大好きだった。
「就職を境に、彼は壊れていった。私は全然気づけなかったけど、確実におかしくなっていった。いや、違うな。気づいてたな。彼が変になっているのは私、わかってた。でも、なんにもしなかった。めんどくさくて」
そこで私は軽く笑った。その笑い声が思った以上に笑い声になっていないのに自分で驚いた。
「だって、めんどくさいじゃん。こっちだって毎日しんどいのにさ、合う度に愚痴を聞かされてさ。だからいつも話題をそらしてた。そしたら言うんだよ。冷たいって。しょうがないじゃん。私はそういう人間なんだから。慈愛とか、愛情とか、そういうのがほしいんだったら、他をあたってよ。私に期待しないでよ。」
美音は何も言わなかった。私の声だけが車内に響く。
「だから、とことん避けた。彼が暗い話題をしようとしたらすぐに帰ったし、電話も切った。だって、しんどい話を聞いたらこっちまでしんどくなるから。私は私のしんどさをなんとかするから、あんたはあんたの苦しみを自分でなんとかしてよってそう思ったの」
私はそうやって生きてきた。私はそういう人間だ。
「そしたら、彼、死んじゃった」
いつの間にか、車は道路の端によって止まっていた。それでも美音はハンドルを持ったまま、黙って前を向き、私の話を聞いている。
「その時、ああ、確かに私って冷たいなってわかったわ。彼が死んだと聞いても、全く悲しいと思わなかった。寂しいとは思ったかもしれないけど、それぐらい。涙も出なかった。彼の実家に線香を上げに行った時も、ほんと他人事って感じで。遺影ってこんなんなんだとかそんなことを考えてたぐらい」
本当だったら泣くべきなんだろう。恋人が死んだのだから。遺影にすがって泣き叫ぶべきだったんだろう。心のある暖かい人間ならば。
「でも、私は冷たい人間だからさ。涙なんか全く出なかった。こればっかしは仕方ないよ」
沈黙が車内に訪れた。
何でこんな話を美音にしているんだろう。美音も気まずくて困っているだろう。悪いことをしたな。
話題を変えようと口を開きかけたとき、「ナツさんは」と美音が遮るように言った。
「冷たくなんかないですよ」
何を言ってるんだ。聞いてなかったのか。いや、気を遣ってくれたのだろう。
「ありがとう。でも」
「冷たくないです」
美音はまた言った。
「私、わかってます。ほんとはナツさん、お姉ちゃんとそこまで親しくなかったですよね。流石にわかりますよ。でも、ナツさんはお姉ちゃんの無茶な頼みを聞いて、私を探し出してくれた。冷たい人がそんなことしますか」
「それは・・・・・・」
「紗奈子ちゃんから聞いてます。ナツさん、一人で逃げることも出来たのに、最後まで
紗奈子ちゃんを自分より優先して助けようとしてくれたって。合って間もない紗奈子ちゃんのために、命をかけてくれたって。それのどこが冷たい人なんですか」
「美音、あのね・・・・・・」
「私の、お姉ちゃんの次に大好きな人の、悪口、自分で言うのやめてもらっていいですか」
美音は怒った様な口調でそう言った。でも少し、語尾が震えていた。
側の歩道から、子どもの笑い声が響いてきた。
「美音」
私は深く息を吸う。そして、吐き出すように言った。
「私、映画を見に行ったの。彼の実家に線香を上げに行った帰りに。せっかく外出したからって。それってもう、冷たいって言うか」
私は目をつむった。
「もう、心がない人でしょ」
美音はしばらくまっすぐ前を向いていたが、はあ、とため息をついた。「そういうことか」と両手を下ろし、私に向き直る。
「じゃあ、なんでナツさんは、そのことをそんなに気にしているんですか」
私は面食らった。
「気にしてなんか」
「だってそうでしょ。そんな何年も前に映画を見に行った事なんて、普通覚えてないでしょ。ちなみに、映画のタイトルは覚えていますか。内容は?」
私は言われて言葉に詰まった。思い出せない。
「ほらね。タイトルも覚えてないのに、映画を見にいったことだけ覚えてる。そんな大事な日に見たくもない映画を見に行ったって事実だけを後生大事に覚えてるんです。なぜだか教えてあげましょうか?」
美音は私を睨み付けるように見つめた。
「思い込みたいからです。自分が冷たい人間だって」
私は予想外の言葉に混乱した。
「思い込みたい? なんで?」
「だって、だってその方が楽だから」
楽?
「自分は冷たい人間だから。自分は心がない人間だから。だからあのとき彼氏さんにやさしく出来なかったのは仕方ない。だって私はそういう人間なんだから。線香を上げに言った帰りに映画を見に行くような人間なんだから。そんな私に期待してきた彼氏さんが悪いって。彼氏さんのせいにできるから」
徹のせいに。
「それはきっと、どうしてあの時ああしてしまったんだろうとか、どうしてああしなかったんだろうとか、そんな風に自分を責めるよりもずっと楽な事だったんだと思います。」
美音の瞳は揺れていた。声もかすれかけている。それでも、姉ゆずりの意志の強い目で私を見つめる。
「いつも思ってました。なんでナツさんは急によそよそしい態度をとることがあるんだろうって。どうしてあからさまに他人と距離を縮めるのを拒むんだろうって。今わかりました。ナツさんは、自分で必死に思い込もうとしてたんじゃないんですか。私は他人に興味がなくて、思いやりもなくて、同情も出来ない冷たい人間だって。だってそうじゃなかったら、助けてあげれなかった彼氏さんに申し訳が立たないから。他の人に優しく出来るんだったら、なぜ彼氏さんに優しくしなかったのかが、説明できないから。」
そこまで言って、美音はまた正面に向き直った。私に目を赤くした横顔を見せる。
「ナツさんは、冷たいわけでも、心がなかった訳でもありません。ただ、自分が恋人を救えなかったという事実を受け入れられなかったから、自分のこととして受け止められなかったから、全部他人事にしてただけなんです」
車内がまた静かになり、美音が時折鼻をすする音だけが響いた。
私は、逃げていたのだろうか。
自分のつらさを言い訳に、恋人の苦悩を無視した自分から。
自分に助けを求めていた恋人が、自ら命を絶ったという現実から。
『端から見れば明らかな事でも、人は自分のことになると途端に気がつかなくなるんだね』
「そう、かもね」
私はゆっくりと窓の外に目を向けた。。
「受け入れていないんだから、そりゃ、涙なんて出るわけないよね」
美音も窓の外に目を向ける。
「仕方ないですよ。ナツさんも、いっぱいいっぱいだったんでしょ」
そう。いっぱいいっぱいだった。初めての就職、初めての職場、初めての仕事。日々を生きるだけで精一杯だった。
「人の相談に乗ったり、悩みを聞いたり、立ち直らせたり、そんなことは、自分に余裕がある人ができることなんです。だから、ナツさんは悪くありません。もちろん彼氏さんも。だれも、悪くなかったんですよ」
でも、でもそれでも。
それでも私は。
美音はフーと息を吐いた。
「どうして生きるのってこんなに難しいんでしょうね」
悲惨な家庭環境を生き抜いた岸本美音は、そう言って無理をしたように笑った。
「そうね」
きっとそうだ。生きることは、生き抜くことは難しい。もしかすると、死ぬことよりもずっと。
車が再び動き出した。
窓の外の桜が流れていく。
ふと思い出した。徹とも桜を見に行った事があった。付き合いだした頃だったろうか。
徹は買ったばかりの一眼レフをうれしそうに桜に向けていた。
景色に全く興味がなかった私は散々言った。桜なんて毎年いやでも見れるじゃないとか、画像検索すればいくらでもプロのきれいな写真があるとか、そんなに見たいなら一人で来ればいいのにとか。
そう言うと、彼は「クールだなあ」と笑って私に向けてカメラを向けた。
一緒に見るからいいんだよ。ナツさん。
美音と一緒に産婦人科の病室に入ると、ベッドの上の紗奈子が笑顔で迎えてくれた。窓からは春の日差しが差し込む、明るい病室だった。
ベッドに座る紗奈子の腕には、新しい命が優しく抱かれていた。
「みらいです。藤原未来」
美音が歓声を上げてのぞき込む。小さな、本当に小さな男の子がすやすやと寝息を立てていた。
なんだかんだ、新生児を間近に見たことがなかった私は、ついまじまじと見つめてしまった。
「髪の毛、もう結構生えてるのね」
「子どもによるらしいんだけどね」
紗奈子は幸せそうに笑った。
「未来は春生まれだから、毛深いのかな」
美音は未来をいろんな角度から見て、「かわいい!」「天使!」とはしゃいでいる。
「目はみえてるの?」
「まだ生後一週間だから。多分、ぼやっとしか見えてない。」
「泣く?」
「そりゃね」と紗奈子が微笑む。
「すごいんだよ。足を触ると曲げるし、手の平に指をのせると、握り返してくるの」
把握反射か。実際に赤ちゃんを前にすると生命の神秘を感じるな。そんなことを思っていると、
「なっちゃん。抱いてあげて」
そう紗奈子に言われて、私は戸惑った。
「いや、無理だよ」
紗奈子がきょとんとする。
「どうして」
「赤ちゃん抱いたことないし。絶対泣かせる」
紗奈子が笑った。
「赤ちゃんは泣くのが仕事だから大丈夫」
ゆっくりと柔らかい布に包まれた未来が私の手に移される。「頭をやさしくささえてあげて」そういわれて、恐る恐る、細心の注意を払って体を支えた。
軽い。でも、命を感じさせる確かな重みがあった。
こわごわと顔をのぞき込む。
未来はすやすやと寝息を立てていた。
未来か。いい名前だ。
口が小さかった。鼻が小さかった。耳なんてお菓子のようだった。生まれたてって、こんなに小さいんだ。
ふと思った。私にもこんな時期があったのだろうか。
紗奈子にもあったのだろうか。
あったのだろう。
美音にも。あかねにも。石田や白鳥でさえも。
こうして誰かに抱かれ、幸せになってほしいと願われていたのだろう。
徹にも、あったのだろう。
不意に視界が揺らいだ。あわてて顔を背ける。
「ちょっとなんでなっちゃんが泣くの」
紗奈子が驚きながら笑う。
「えっと、ごめん」
止めようとした。でも止まらなかった。両の目からは次と次と涙があふれて、頬を伝って落ちていく。私はこぼれる涙が未来に当たらないようにするので精一杯だった。
生きててほしかった。
私にこんな事を思う権利があるのかはわからない。徹が一番つらい時に側にいようとしなかった私が、願っていいことではないのかもしれない。でも急にあふれ出た思いは止まらなかった。
徹に会いたかった。
また、笑ってほしかった。
クールだねって言ってほしかった。
面白くなくてもいいから、またたくさん話をしてほしかった。
私は、徹に、生きててほしかった。
「なっちゃんが泣くから、私もなんか泣けてきたじゃん」
そう言って、紗奈子もぽろぽろと泣き始めた。その肩に手を乗せる美音も、隣で涙ぐんでいる。
それでも、私の涙は止まらなかった。まるで、数年分の涙を出し切ろうとするかのように、大粒の涙が止めどなくあふれる。そして私は泣きながら、未来を抱き続けた。強すぎないように、力を込めすぎないように、でも、決してはなさないように。
涙で揺れる視界で未来を見つめる。そして願った。必死に母親のお腹から生まれてきたばかりの、赤ん坊に願った。
生きてほしい。
楽しいことばかりじゃないと思う。つらいこともあると思う。しんどいこともあると思う。きついことも、悲しいことも、思い通りにならないことも、理不尽なことも、やるせないことも、後悔することも、自分が嫌になることも、出口が見えなくなることもあるかもしれない。
でも、最後はきっとに幸せになれるから。
私はあなたに、生きてほしいの。
未来がふいに目を閉じたまま手を伸ばした。まるで私の涙に触ろうとするかのように。わたしは、思わず、そのちいさな手を私の手のひらで包んだ。
ゆっくりと、小さな手が、私の指を握った。意識しないと気づかないようなわずかな力で。
どんな夢を見ているんだろう。
春の暖かな日差しに中、未来が微笑んだ。
【END】
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