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1.卒業
高校卒業を控えたある日、私は父と母に「話がある」と言われた。
「七海、前から言っていたけど、大学生になったらこの家を出ていきなさい」
「お母様……わかりました」
私は薄々感づいていた。この家に、自分は必要とされていない。
「これが最後の金だ。感謝しろよ」
「はい、お父様」
厚みのある封筒を受け取る。中には帯封のついた一万円の束が一つだけ入っていた。
「まったく、あんな三流大学にはいるとは、情けない」
私の受かった大学は、私立だけれども学費が安く、文学部もそれなりに有名だった。
偏差値は60に届かないけれど、悪い学校ではないと思う。けれど、父と母に言わせれば、三流ということになるらしい。そんな大学に通うような無能なものを養う義理はない、というのが両親の判断だった。
私の家は決して貧しいわけでは無い。それどころか、お金持ちに属する方だと言えるだろう。父も母も、有名企業の役職についている。きちんと聞いたことはないけれど、それぞれ年収1000万以上はもらっているはずだと思う。
「これで仕事に専念できるわ」
「そうだな」
両親がさっぱりした、という表情で微笑んでいる。
私は頭を下げて言った。
「まだ、下宿が見つかっていないんです。家事は今まで通りにしますから、もう一か月だけ、ここに置いてください」
母と父は不愉快そうにため息をついてから、しぶしぶ承諾した。
「それじゃあ、一か月だけ、おいてやる。それ以上は……勝手にウィークリーマンションでも探して住めばいい」
父の言葉に、私は唇をかんだ。
「……ありがとうございます」
私は部屋に戻って、いらないものを片付けようとした。けれど、そもそもいらないものなんて、ほとんど持っていなかった。
「喉、乾いたな……」
飲み物が欲しくてリビングに入ろうとしたけれど、話し声がしたので立ち止まった。
父と母の楽しそうな声が聞こえてきた。
「七海がいなくなったら、家事はどうする?」
「家政婦を雇えばいいでしょ?」
「そうだな。これからはもう少しまともなものが食べられそうだな」
「七海を生んだのは、本当に大きなミスだったわ」
母の声を飲み込んだ私は、足をしのばせて音をたてないように自分の部屋に戻った。
「けっこう、頑張ってたんだけどな……」
口の端だけで、私は笑った。
*****
私は小学校五年生になった時から、家事をしていた。
父も母も、私が十歳になったときに声をそろえて言った。
「七海ももう、十歳になったんだから、出来ることはしてもらわないと」
母はそう言って、私にぶかぶかのエプロンをくれた。
「そうだな。働かざる者食うべからず、というだろう?」
父は踏み台をくれた。
「洗濯の仕方や、食事の作り方は学校でならったか?」
「いいえ、お父様」
「仕方ないわね……じゃあ、教えてあげるからきちんと覚えなさい。同じことは教えないからきちんとメモを取るのよ?」
母はそう言うと、家事を一通り私に教えた。
私はメモを取ったけど、母からの一度の説明では家事を覚えきれなかった。同じことを聞くと「あなたの頭は何のためについているの?」と母に眉をひそめて言われるのが、とても嫌だった。いつからか、母に家事を聞くのはやめて、ウェブで調理や掃除、洗濯の方法を確認するようになった。
「お父様、今日はローストビーフを作ってみたの」
珍しく早く帰った父に声をかけた。父は「そうか」と言って食卓を一瞥すると、すぐに自分の部屋に行ってしまった。
それはいつもの光景だった。そして、父と母のために作る食事は、いつも冷めきってしまう。
父も母も私が家事をするようになってから、出張や残業で、家にいない時間が増えた。
私は一人の時間の心細さを友人の家で埋めようとしたけれど、放置子と陰で呼ばれていることに気が付いた。『放置子』をこっそりウェブで検索して、放課後に友達の家に行くと避けられていた理由を理解し、友人たちとも距離を取った。
一度、小学校で友人と話していた時に父のことを「お父様」と呼んでしまい、笑われた。どこのお嬢様だよって。私はそれ以来、両親のことを外では父、母、と言うようになった。
小学校が終わると行く場所がなくて、途方に暮れていた時に、わずかに残った友人の一人が図書館に誘ってくれた。
私は司書のおすすめコーナーにあった『モモ』を手に取った。
初めて、自分から物語に触れた。物語の主人公モモは、ひとりぼっちのはずなのに、とても強い。私はすぐに夢中になった。
私は、『モモ』を読み終えると、次の物語を探しに図書館に通うようになった。
中学は公立校に進んだ。テストの点は悪くはなかったが特によかったわけでもない。ただ、国語の成績だけはとびぬけてよかった。きっと、本をたくさん読んでいたからだろう。
中学の部活は文学部に入った。中にいたのはアニメやマンガが好きな、いわゆるオタクが多かったけれど、好きなだけ本が読めるし、居心地は悪くなかった。
中学のころ、七海ちゃんは髪、のばさないの? と文学部の友達に言われた。彼女の髪は腰まで届くようなきれいなロングヘアーで、内心あこがれていた。でも、私は髪の手入れをするほど綺麗な女子ではないし、ショートカットのほうが手入れも楽でいいと思っていた。
高校生になってアルバイトができるようになると、最初のバイト代で『モモ』を買った。
小学生の時とは違った目線で呼んでいる自分に気づいた。私は、父も母も素晴らしい人だと思っていたけれど、ただ時間に追われているだけの哀れな大人なのかもしれないと思うようになった。
私は本棚の一番取りやすいところに『モモ』をしまい、寂しいときには何度もそれを読み返した。
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