序章

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序章

 家の玄関と同じくらい見慣れた廊下を、無心で歩く。床から天井まで白い空間は清潔で、明るい蛍光灯が行く先を照らしていた。消毒液の微かな匂いが鼻をかすめる。  左右に並ぶ病室のドアを通り過ぎ、汗を拭きながら最奥へ向かった。  市ヶ谷(いちがや) 陽稀(はるき)にとって、この病院は通い慣れた場所だ。4つはなれた兄が5年前に入院してから、ほとんど毎日のように来ている。入口は顔パス、看護師のほとんどが顔見知り。学校帰りの重い通学鞄を肩から下げ、学ランをなびかせて白い廊下を歩くのにももう慣れた。  301号室という札の掲げられた病室に足を踏み入れる。個室なのにカーテンが閉められていた。いつものことだ。眩しいかもしれないからね、という母の無駄な配慮だった。両親がベッドに話しかける声が聞こえてくる。兄は今もまだ目を覚ましていないというのに、あの2人は彼の前でだけ饒舌になるのだ。  閉じたカーテンを少しだけ開けて、中を覗いた。廊下と同じく、病室という空間は白い。清潔感の演出のためにベッドも布団も机も白く塗られ、見舞い客用の椅子も小洒落たクリーム色である。その中央に、痩せた兄が目を閉じて横たわっていた。  チューブを腕に3本生やし、鼻から1本伸ばしている兄は、今日も目を覚まさない。その向こうで、椅子を独占した父と母が穏やかな笑顔で語りかけている。 「裕貴(ゆうき)、お父さんついに昇格したんだぞ。お給料も増えたんだ、何でも買ってやれるぞ。ああそうだ、前に犬のペットロボがほしいって言ってたな。あれとかどうだ」 「そうねえ、あれなら普通に買えるわよ。1体25万からよね。今のお父さんのお給料じゃ簡単に買えちゃうわ」 「そうだぞ、最近のは種類もたくさんあるんだ」 「何の型がいい?あら、シェパード。良いわね。裕貴は本当にかっこいいものが好きね」  ばかばかしい、と陽稀は心中で吐き捨てた。既に高校生になっている陽稀よりも、兄の裕貴はさらに歳上なのだ。裕貴が目を覚ましていたら何と言うか正確にはわからないが、犬型のおもちゃを欲しがるような年齢でもないだろう。両親はいつも通り、自分たちの都合の良い世界しか見ていない。  2人の中では、裕貴はいつまでも幼い少年のままだ。 「親父、鈴城(すずしろ)先生が後でいつものところに来てほしいって。俺たちに話したいことがあるらしい」  重い鞄を床に置いて、そう声をかけた。顔をあげた両親と目が合う。本来の年齢よりもしわが深く刻まれた顔に、期待の表情が浮かんだ。
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