検体

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検体

 夏もだいぶ過ぎ、半袖一枚では心もとなくなってきた頃である。弱い冷房が空気を冷やす301号室に、陽稀はいた。隣には父親が座り、いつもと同じように眠り続ける裕貴の手を撫でている。  ベッドを挟んで対面には、白衣を着た鈴城がいた。私物なのか判別のつかない手提げの鞄を手にしている。  休日の空いた時間を利用して見舞いに来た陽稀と父に、鈴城は突如採血を求めた。唐突な申し出に陽稀はぽかんとしている。一方で鈴城は涼しい顔をしている、そういう状況だった。  同席する父親を横目に見るが、たいして疑問を覚えたようすでもない。真顔で話を聞いているのは、真剣であるというだけだ。  鈴城が、何食わぬ顔で髪を撫でつけながら言葉を続ける。 「そのとおりです。裕貴さんのクローン人間の中に流れる血液は、もとの裕貴さんと血液型が一致していればいいというわけではありません。もちろん本人からはとうに採血しましたが、それだけでは足りないのです。ご両親がお望みなのは、入院して長年経つ今の裕貴さんではなく、健康体の裕貴さんでしょう」 「いや、ちょっと」 「今の裕貴さんは、チューブで必要最小限の栄養を体内に直接投与されています。長い入院生活で体の筋力も落ちていますし、健康状態も全く違う。体質も変わっています」  前髪から手を離して一旦言葉を切ると、鈴城は再び続けた。 「市ヶ谷 裕貴さんという22歳の健康な男性のクローンを作るのです。遺伝子はもちろんご本人と完全に同じですが、入院生活で衰えた健康状態をそのままクローン人間に持ち込むことはしません。本来ならば健康だったときの裕貴さんからいろいろ採取したいのですが、それも厳しいですし」 「待ってください。そうじゃなくて」 「もしも今、裕貴さんが完全な健康体だったら問題はないんですがね。そうではありませんから、血液の情報はご両親と陽稀さんの血液情報から推測したものになります。ただのサンプルですのでご安心ください」  何も安心できる状態ではなかった。確かに鈴城は裕貴のクローンをつくるといったが、それは「健康な市ヶ谷 裕貴」のクローンだ。健康体ではない今の裕貴と全く同じクローンをつくれば、当然のごとく両親の望みは叶わない。  「健康」でありかつ「裕貴と完全に同一」を再現するには、同じ血を引き継がせた裕貴の両親、そして兄弟である陽稀を参考にするしかないのだ。鈴城はそう言う。  彼が鞄から太い注射器を取り出したのを見て、背筋を冷や汗が伝う。500mlくらい入りそうな注射筒に、鉛筆の芯ほどの針がついていた。どう考えてもただの採血ではない。
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