検体

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 地獄のような時間が終わった。どんなに嫌でも、耳元でずっと兄の名をささやき続けられれば抵抗の意思も失せる。家族を助けるための方法を自ら手放すのか、という鈴城の言葉が脳裏にこだましていた。  中学に上がる前から入院していた裕貴が目を覚ますかもしれないという期待は、陽稀に適切な判断をさせる余地を与えなかった。差し出した腕に針が刺さる痛みを感じた瞬間に、ようやく自分の行動を悔いた。  わずかにこぼれてしまった涙を見せまいと、反対側の腕で目元をぬぐう。左腕の上腕に貼られた止血テープから目をそらして床を凝視した。 「申し訳ありませんでした、陽稀さん。痛い思いをさせてしまって」 「・・・・・・痛えよ。ほんとに」  鈴城の猫なで声に、小さくうなずいた。視界の端に注射器をしまわれた鞄をとらえると同時に、陽稀の中で疑問が確信に変わっていく。  少なくとも、ただの金目的の詐欺ではないだろう。もしもそうならば、わざわざカモに近づいて要りもしない血液など求めない。  鈴城の言っていることが、もしも本当だったとしたら。両親がすがりつくのもわかる。だが、証拠もなしに信じられるはずがない。  クローン人間も脳移植も、確かに医学の進歩上現実のものとなった。だが平凡な高校生でしかない陽稀にとっては、それらも全て鈴城の都合の良い方便に聞こえる。  しかし、陽稀は何ヶ月か前に会った髙橋のことを思い出していた。あのときはまったく信じていなかったが、今なら無意味な採血の理由づけにもなる。  蘇生治療、それが嘘か真か。後者である可能性が見えてきた。  陽稀は、賭けに出ることにした。今さら鈴城が悪人であることに変わりはない。だがその正体が、ただの詐欺師かそれとも悪徳医師か、どちらであるかくらいは見極めたくなったのだ。  ごくりと唾を呑む。ここで自分が言うことが、鈴城にどれだけ影響を与えるかはわからなかった。クローン人間生成に納得するよう説得をしてきたということは、彼の目的には自分も必要ということなのだろう。  とはいえ、彼の狙いはあくまで両親であるはずだ。金も願いもない裕貴のことはもとより標的としておらず、材料のひとつとしてしか見ていない可能性もある。陽稀の意見など歯牙にもかけず無視されるかもしれない。  結んだ口を開き、震える声を絞り出す。 「この採血が兄の蘇生治療にどう関わってるっていうんだ?さっき説明してくれたけど、それだけじゃ全然納得できない。クローンだの蘇らせるだの、未だに荒唐無稽な作り話に聞こえる」  ──だから、見せてくれよ。作り途中だっていう裕貴のクローン人間とやらをさ。  両親に聞こえないよう、小声でささやく。しっかりと鈴城を見据えた。一瞬真顔にも見えるが、ほんの少しだけ口の端がつり上がっている。何がおかしいのか彼は薄っすらと笑っていた。 「いいですよ。では、明日の零時に病院の裏手で」  口を動かすていどのひそひそ声が、そう返事をした。
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