逃走

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逃走

 不意に、静まり返った家に呼び鈴の音が響いた。顔を上げた父が眉をひそめるが、何度か連続して鳴らされたチャイム音に渋々と玄関へと歩いていく。  覗き穴を覗いた。途端に彼の手がチェーンロックへ伸ばされ、すばやく解錠された。あっという間にドアが開けられる。一気に冷気が吹き込んできた。  屋内の明かりに照らされた来訪者の姿に、陽稀の背を悪寒が走った。 「こんばんは、鈴城先生!お仕事お疲れ様です。いかがなさったんですか?」 「ええ、実はちょっと急用を思い出しましてね。裕貴さんのことなんですけども」  父の甘ったるい声に和やかに答えるのは、鈴城だ。12月の上旬であるにも関わらず。羽織っている黒いコートは薄い。セーターを1枚着込んだだけの格好で、病院にいるときと変わらない七三分けの髪をかきあげ、にやにやと笑っている。その笑顔が不気味で仕方ない。  常に鈴城のことを怪しんでいる本能が、今日ばかりは強く警鐘を鳴らしていた。だが、両親にとっての鈴城は警戒対象でもなんでもない。奥から出てきた父を交えて談笑しながら陽稀の側を通り過ぎ、父母と鈴城はダイニングに入っていった。  すれ違うときに、鈴城が陽稀の腕をがっしりと掴む。 「陽稀さん、お越しいただけますか。本日の主題はあなたですので」  嫌な予感しかしない。行けば確実に悪いことにしかならないとわかっているのに、陽稀は鈴城に引きずられていった。    *** 「夜分遅くに突然押しかけ、申し訳ないです。ただ、先程も言った通り大事なことを忘れていましてね」  母の出した茶をすすりながら、鈴城はダイニングの椅子に腰かけていた。古いマンションの一室でしかないこの家に客間などというものはない。鈴城は安っぽいもてなしを受けつつも、テーブルの下で優雅に足をくんでいる。  鈴城の向かいの席に陽稀が座り、それを取り囲むようにして両親が、左右で背筋を伸ばしている。母は大急ぎで涙を拭ったのか、まだわずかに目の端が赤い。それでも鈴城がいるせいか、まっすぐな眼差しを向けていた。  主題は陽稀であるからという理由で、陽稀は、鈴城と対極になるよう椅子の位置を移動させられていた。鈴城は目の前に陽稀が座っていることに満足したようすで、口を開いた。 「健康体になった裕貴さんは、当然ですが肉体があります。その中には血液が流れていて、骨も筋肉もあって神経も通っています。それをクローン技術で再現するための検体は、既に皆様からいただきました。涙のための涙腺、汗のための汗腺。特に体液に関しては多くの検体をご提供いただいたのですが、まだひとつ、足りないものがあったんですよ」
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