逃走

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 夜特有の刺すような冷気が、全身を柔らかく覆っていた。吐く息は白く、ポケットに突っ込んだ手は冷たい。荷物の全てを詰めた鞄を持ってきた自分の判断に感謝しながら、陽稀は近くのコンビニに入った。温かいミルクコーヒーを買って一気に飲み干す。  半分ほど飲み干したところで、ようやく息をついた。冷静になってくるにつれ、今の状況が如何にまずいかを自覚しはじめる。  鈴城がヤバい奴だというのは、元からわかっていた。両親がおかしいのもわかっていたつもりだ。だが今まで逃げ出さなかったのには、やはり兄の存在が大きい。  最後に裕貴と会話をしたのは小学校の頃だったが、良い兄だった。自分のことをよく気にかけてくれて、他の家の兄弟みたいに喧嘩をしたこともなかった。  何年も前、裕貴が入院したと聞いたときには食事も喉を通らないほど心配したし、病室でチューブに繋がれた兄の姿を見て思わず泣き出したこともある。息子を心配に思う親の気持ちも、理解していた。  いや、理解しきれていなかったのだ。兄の「蘇生」に病的なまでに取り憑かれてしまった両親を引き戻すことは、もうできないだろう。  あのあと、鈴城をなんとか押しのけ衝動的に飛び出してきてしまったが、これからどうすればいいのか。行くあてなどない。兄の見舞いにかまけて堕落した青春を送ってきた。頼れるクラスメイトなどいないし、泊めてくれるような仲の良い友人など尚更だ。  親戚の住む田舎に行こうにも、千円札数枚では心もとない。キャッシュカードは置いてきてしまった。真冬だというのに、ろくな上着も持っていない。 「どうしたらいいんだよ、兄貴」  弱々しい声で助けを求めながら、陽稀はへたり込んだ。雑誌コーナーの隣の壁に背を預けて、顔を膝にうずめる。商品の補充をしていた店員が舌打ちをしてきた。  助けを求めても、誰も手を差し伸べてくれない。そういうものだと学んできた。呼べば飛んでくるヒーローなんて、所詮妄想でしかない。幼い頃はヒーローに見えていた鈴城も、いつしかそうではなくなった。  狭い病室に最低限の措置、進展しない治療に見合わぬ高い入院費用、そして夜の高額な取引。低待遇は、他の医師から白い目で見られているからという理由だけではない。  あの鈴城という男は、自分たちのことを利益をもたらしてくれる金づるとしか思っていない、医者の皮をかぶったくそったれだ。  どうして、毎日裕貴のお見舞いになんて行っていたのだろう。そんなばかげた考えに支配されそうになる。けれど、この疑問だけには囚われてはいけない。裕貴を救おうとして両親がどんなに狂おうとも、元気だった頃の兄との記憶に蓋をしてはならないのだ。そうであるはずだ。
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