逃走

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 昔は家族そろってピクニックにも行ったし、動物園にだって行った。あの頃は、毎日が楽しかった。兄のいる生活が楽しかった。それを忘れたらいけないのに。  けれど、楽しかった頃の記憶に囚われすぎた両親は、鈴城にいいように使われてしまっている。  またもや頬を涙がこぼれるのを感じながら、陽稀はひとりうずくまったまま、肩を震わせていた。  鈴城の言動に耐えきれず、家を飛び出してから数時間が経過していた。夕暮れは過ぎ去り、真夜中がさらなる暗闇を手招いている。このままここに居続けるわけもいかないのに、どうしてだか動く気にもならなかった。  ふと気がつくと、隣に兄がいた。まだ中学生かそこらで、元気だった頃の裕貴だ。自分はまだ小学生で、いつも彼のあとをついてまわっていた。今よりもずっと若い両親がキッチンで談笑している。陽稀も裕貴の側でソファに座りながら、テレビを見ていた。  すぐに、これは夢だと悟る。兄はまだ起き上がることもできていないし、そもそもこんなに幼くない。何年も前の記憶を脳内で反芻しているだけだ。 「兄ちゃん、俺ね、今日学校で逆上がりやったんだよ。それでね、クラスで1番最初にできたんだ!」 「えー、陽稀すごいね!僕なんか何回やってもできないよ」 「そうなの?何でもできるお兄ちゃんにも、できないことがあるんだね。そうだ、今度俺がお兄ちゃんに逆上がりのやり方教えてあげるよ!」 「ほんと?嬉しいなあ」 「じゃあ明日の放課後、いつもの公園集合だよ!やり方教えるから、兄ちゃんなら絶対できるよ」 「そうなんだね。それは楽しみだなあ。じゃあ陽稀先生、ご指導のほどよろしくお願いします」 「ゴシドーノホドってなあに?」 「あはは、わかんないなー」  会話の細部まで覚えているわけではない。大半が脳の補完による架空のせりふだろう。それでも、兄と鉄棒の練習をする約束をしたことは覚えていた。夕食をつくる父と母がそれを聞いて楽しそうに笑っていたのも、隣に座る裕貴が笑顔で自分の無茶ぶりを受け入れてくれたのも、全部事実だ。  けれど、今ならわかる。運動の得意だった兄は当時とっくに逆上がりなんてマスターしていたし、前方支持回転だの飛行機跳びだの難しい技もできていた。そもそも、普通に考えて中学生が小学生に逆上がりを教えてもらうようなことはない。  それでも幼い弟の無邪気な自己満足に付き合ってくれる、優しい兄だった。  あのときはまだ、あたたかい家族だった。それなのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。  自問自答しても、答えは出ないままだった。
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