契約

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 世界で初めてクローン羊のドリーが誕生したのは、1996年のことだ。人類が21世紀を迎えるよりもはやく、何十年にもわたって続けられていたその実験は実を結んだ。  この素晴らしい成果を皮切りに、人間はついにクローン人間の開発へと歩み始めるのではないか。当時はそんな非倫理的な可能性もささやかれていたが、あるとき、ついにそれは現実のものとなった。  つい数年前、アメリカのリング・ヴァジム博士がクローン人間を完成させた。最先端技術と最高峰の学者たちを総動員して努力の末作り上げたクローン人間を、何に使うつもりだったのかは定かではない。  何にせよこの驚くべき事実は、とにかく世界中で一大ニュースとして大きく取り上げられた。  ドリーのときと同じく、医療への多大なる貢献に役立つのではないかという希望的観測と、人間が人間をつくるのは倫理的にいかがなものかという否定的な意見が殺到した。  世間からの賛否両論が一極集中することを恐れたのか、その2年後にヴァジム博士を含む研究チームは姿を消した。クローン人間の生成法と共に表の世界から消えたのだ。  だが当人が行方をくらましても、開発されたクローン人間の技術の影響は世界に残り続けた。  そして、あまりにも突然に投じられた一石にもっとも震撼したのが、医学界だったのである。  西暦は2030年を過ぎている。世界中で多くの科学技術が進歩を遂げていた。もちろん医療も例外ではない。  昔よりも医療は進歩し、移植手術や接合手術の成功率も飛躍的に高まっていた。一昔前、それこそ10年前では考えられなかったような施術も可能となっている。故にこんなことを考える痴れ者もあらわれた。  例えば、体は動かせないが脳はまだ生きている患者がいるとする。  その患者と完全に同じクローン人間をつくって、本来ならば空洞であるはずの頭部に、患者の脳を移植すれば──  生きるのに最低限必要な臓器と患者の脳を、健康体である人間クローンにそっくりそのまま移植する。完全に人工の「外側」に、本人固有の「中身」を入れてしまえばどうなる?  精巧なクローンなら患者の元の外見となんら変わりはない。脳と神経をつなぐ手術がうまくいって、その後の経過も順調にいけば。  ずっと動けなかった患者が起き上がれるようになるのだ。理論上では。
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