契約

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 その日から、両親の顔つきは一変した。裕貴が健康体で目を覚まし、また一緒に暮らせるようになる。叶わないと思っていた願いが現実になるかもしれないのだ。今までは取ってつけたような笑顔ばかり浮かべていたが、この頃はよく笑うようになった。  どんな新薬も治療方法も、気休めに過ぎなかった。ようやく現れた希望に飛びつくのも無理はない。あれから鈴城は、クローン人間を使った延命治療の成功事例について話してくれた。政府からは公認されていないが、不死の病や老化、裕貴のような難病の家族を持つ金持ちが大金を払ったケースが世界各国であるのだと言う。  手術が終わったら遠い街に引っ越して、裕貴さんの戸籍も名前から変えた方がいい。代金も高くここを離れることにもなるが、それだけの価値があると鈴城は言った。両親も賛同した。そしてあっけなく金を引き渡した。  それが如何に愚行であるかも知ろうとせずに。 「裕貴と遺伝子まで全く同じクローンをつくるには、裕貴の遺伝子が必要なんですって。そりゃそうよね。明日、お見舞いのときに裕貴の髪の毛を何本か採取するわ」 「余計なものが入らないように、瓶か何かに入れなきゃいけないんだ。用意するよ」  翌日、陽稀が見舞いに赴くと、眠っている裕貴の頭からそっと髪を引き抜いている母の姿を目撃した。前髪に眼球が触れるほど目を見開いて、指先まで神経を張り詰め、裕貴の顔を少しも動かさないようにして髪を1本引き抜く。  そしてこれまた真剣な顔つきで佇む父の持つ、透明な小瓶の中にそれを入れた。  あまりにも静かなせいで、呼吸の音しか聞こえなかった。両親は入室した陽稀に気づかないまま、裕貴の髪を採取することに全神経を集中していた。  あんなに愛していたはずの息子のクローンをつくるために、体の一部を採集しようとしている。その行為が気持ち悪く、陽稀は口を抑えながら退室した。  嘘に決まっているのにどうして信じてしまうのだろう。信じたいからだ、と陽稀は思った。ずっと見えなかった希望のためなら、両親は何でもするのだと悟ったのだった。
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