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◇ 「ここの喫茶店、パンケーキが絶品なんだよ」  席につき、注文を終えるや否や北条くんはそんな風に会話を切り出した。 「さっきも少し言ったんだけど、ここの店主さんすっごく面白い人でね。気分でお店を開くかいつ入れるか判らないんだよねぇ」 「えっ、そうなの? だからあんなにわくわくしてたんだ」 「たはは、やっぱり判っちゃうか。そうなんだよ、やっと開店日にありつけたから、つい興奮しちゃって……」  照れ臭そうに頬をかくのを見て、そういえば喫茶店巡りが趣味だって昔話してたな、と不意に思い出す。 「でも、ちゃんとヒントもあるんだよ。SNSも動いているし。あと噂によると、今夜絶対月が綺麗になるって店主が思った日に開店するんだとか」 「へえぇ、何だかロマンチックだね」 「でも、だとしたらおかしな点もいくつかあってね。確かにこの喫茶店は夜しかやってないんだけど、材料の調達とか焙煎とか考えたら日が出ているうちに準備しなきゃいけない。そう考えたらあの店主、まだ月の出てない時間帯に『今夜は綺麗になる』って判断してることになるんだよ」 「ああ、言われてみたら確かに。そうなると本当に気まぐれだね、ここの店主さん」 「だろ? もしくはそういう超能力者か、予言者のどちらかだな」 「滅茶苦茶凄い天気予報士かも?」 「だとしたら今頃色んなテレビ局から引っ張りだこでしょ」  他愛もない会話に思わず笑みが零れる。  楽しい。北条くんと言葉を交わしていると何だか頭がふわふわして、思ったことが淀みなく口から滑り出てくる。それを北条くんが上手く受け止めて、期待の遥か上をいく返しをしてくれる。だからこうして会話をするだけでも簡単に心が満たされてしまう。 「それにしても本当に好きなんだね、喫茶店」  余韻に浸りながらわたしは頬杖を突き、問いかけた。 「調達とか焙煎とか、結構詳しそうだし」 「ああ、まあね。当然お店によって習慣が違うから全部合ってるとは言えないけど。大体は昔地元の喫茶店でバイトやってた時に培った知識だよ」 「喫茶店でバイトしてたんだ! 初耳!」 「というか、お店自体もそうだけど珈琲が好きでさ。喫茶店に行くのも、それぞれのお店の味の違いを堪能するためだったりするんだ。殆どの店は、定番のスイーツに合わせて調達する豆も厳選してるし」 「へえぇ……深いなぁ喫茶店」  相槌を打ちながら、喫茶店で働く北条くんの姿を想像してみる。白いワイシャツの上に緑色のエプロンをかけていて。普段は真面目な顔してるけど、お客さんが来た瞬間ぱっと表情を明るくして──。  誰かに覗かれたら間違いなく悶絶しそうな妄想の最中、不意に渋めの低い声がかかってきて、テーブルに注文した品が一つずつ置かれていく。二人分の珈琲と、黄金色のパンケーキ。ふと顔を上げると、そこでは肌の黒い男性が、白髭越しでも判るぐらいにっこりと微笑んでいた。 「それじゃあ、ごゆっくりどうぞ」  恐らく、この人が店主さんなのだろう。男性は優しい口調と共に一礼して、厨房の方へ戻っていく。不思議な雰囲気の人だな、と去り際までその様子を見守っていた矢先。 「……こいつは、長期戦になりそうだね」  彼は北条くんには聞き取れないぐらいの声でわたしにこう呟いた、気がした。  どういう意味だろう。妙に胸騒ぎがして店主さんに聞き返そうとしたものの、その時には既に厨房に着いて別の注文の準備をしていた。歯痒い思いだけが胸の底に沈殿していく。
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