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「うん? どうしたの、名倉」 「えっ? ううん、何でもない。それよりも──」  気を取り直して、わたしはパンケーキの乗ったお皿に目を向ける。 「……まるでお月様みたいだね。きれい」  ほっと溜息をつくように、口から言葉が零れる。  本当に、秋の満月みたいだった。真ん丸な焼き目はほんのり優しい色をしていて、そっと深呼吸すれば甘く柔らかい匂いが肺を満たしてくれる。 「まるで学校の帰り道で見る満月みたい。住宅街に差し掛かる辺りで見るような」 「あっはは! 喩えが秀逸だなぁ。まあでも、言わんとしてることは解るかも」  朗らかに笑いながらも、北条くんはその比喩を肯定してくれた。 「最初は何もかけず、そのまま食べるのがいいんだって。何もかけてない状態がこのパンケーキの真骨頂だ、って言うのが口コミで有名な話なんだ」 「へえぇ、危ない危ない。教えてくれなかったら、すぐにシロップかけるところだった」  北条くんの言った通りに、二枚重なったパンケーキの下の段をナイフで一口サイズに切り取る。そのまま口の中に放り込むと、たちまちふんわりとした香りがいっぱいに広がっていく。見た目は満月なのに、味はまるでお日様だ。 「……本当に美味しそうに食べるね。誘った甲斐があったよ」 「だって、こんなに美味しいパンケーキは初めてで……正直びっくりしちゃった」  二切れ目を咀嚼し、呑み込んでから私はまた会話を切り出す。 「北条くん凄いね。沢山ある喫茶店の中からこういう隠れた名店を見つけ出すなんて。普段どうやって探してるの?」 「うん? ああ、普段は『近くの喫茶店』で検索かけて目ぼしいお店をお気に入りに登録したりしたりとか。あとは友達からお勧めのお店を聞いたりすることも結構あるよ。このお店も友達から存在を聞かされたし」 「なるほど。いいなあ……そういうのに詳しい知り合い、ちょっと憧れるかも」 「多分、名倉も知ってる人だと思うぞ? 『月天心』教えてくれた人に関しては」  シロップをかけようとした手が、ぴたりと止まってしまう。  急に止まったせいで琥珀色の液体が数滴、柔らかい生地の上に零れ落ちた。まるでフリーフォールのように、この胸の中のお部屋みたいにゆっくり、真っ直ぐと。  心当たりはあった。いや、逆に今思いついた子しか、見当がつかなかった。 「……もしかして、茉子ちゃん?」 「そうそう。あの人、俺より喫茶店に詳しくてさ」  クイズ形式でウキウキに答えた風を装ったけど、すぐに誤った選択だったことを察する。北条くんに、茉子ちゃんのことを話させる隙を与えてしまった。 「ゼミ以外の授業でもたまに一緒になるんだけどさ、マジで俺よりも色んな場所に行ってるらしくて、純粋にびっくりしちゃったんだよね。しかも、どういうところがお勧めなのかっていう言語化が上手いの。お陰でどのお店も魅力的に思えちゃうんだよ」  まるで、針をじりじりと突かれる風船の気分だった。きっと気のせいだろう。いや、気のせいじゃないと耐えられない。北条くんの会話の様子が、心なしかいつもより格段と楽しそうに感じてしまった。 「名倉も茉子さんに訊いてみたら? たしか仲良くなかったっけ? 普段もゼミでよく話してるの見かけるし」  追い打ちをかけるように、見えない針で突き刺される。それでも自我の風船が割れずに膨らみ続けている、っていうのが我ながら怖い。いっそこのまま破裂して、北条くんを傷つけられればいいのに。  だけど、わたしにそんなことはできない。いや、する勇気が出ない。だってわたしは、どこまでも意気地なしだから。 「──うん、今度聞いてみようかなぁ」  こうやって、仮初めの笑顔を塗りたくることしかできない。  茉子ちゃんは良い人だった。親切で、誰にでも気兼ねなく話せる人。あの子が北条くんに対して「そういう気持ち」があるかどうかは判らない。だけど、授業も帰り道も一緒なあの人は、ヒロインレースにおいてわたしなんかより数段も有利だ。  茉子ちゃんのことも名前で呼んでいた。きっと気づかないうちに北条くんの意識もあの人に──そんな悶々とした想いを誤魔化すように、わたしは北条くんの話に耳を傾ける。最初はあんなに美味しかったパンケーキも、今ではシロップをたくさんかけたところで鉛の味しかしなかった。
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