兎にも角にも

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 月明かりだけに照らされた国道沿いの暗い歩道から一歩踏み入れるとそこは、眩い照明に照らされた近未来の風景が広がっていた。目の前に広がる光景が想像とあまりにも違っていたことに新鮮に驚き、僕はコインランドリーの入り口を一歩入ったところで立ち止まった。そしてぐるりと辺りを見回す。  ひと昔前まで深夜のコインランドリーと言えば、ひと気がなくて古びた機械の音がゴウゴウ唸ってて、今にも背後の暗がりから人ならざるものが現れそうな気味の悪い場所だった。だから僕も今日は幽霊だろうが妖怪だろうが、処理漏れした先月の請求書だろうが、何が出てきても正々堂々と対峙する覚悟で大量の洗濯物を抱えて来たわけだけど、すっかり様変わりしたこの場所に拍子抜けしてしてしまう。  新開発の進む住宅街という区画ジグソーパズルの中心近く、夜空を貫くマンション群の隙間にぽっかり空いた立地と、急増した住民の需要というピースが奇跡的に合致して誕生したこのコインランドリーは、最近オープンしたばかりだ。店内の真新しい洗濯機はどれもつるりと清潔そうで、店内の照明を反射しながら静かに回転を続けている。  その向かいには磨き上げられた広いテーブルがある。さらに奥のカウンターは今はカーテンで仕切られているが、おそらく昼間はカフェか売店のようなものをやっているのだろう。そこで買った飲み物をこのテーブルで飲みながら洗濯を待つのかもしれない。  とにかく、この何年かの間に僕の知っているおどろおどろしいコインランドリーは完全に姿を変えて、スタイリッシュで洗礼されたお洒落な知らない場所になっていた。初めて来た場所にも関わらず、下手すると自分の家より落ち着いている自分が居る。  僕は空いている洗濯機の一つに毛布やらシーツやらを詰め込みながら「こんな事なら、もっと早くに来れば良かったなあ」と誰ともなしに呟いた。    今の我が家は、さながら静かな戦場だ。  まもなく新しい家族を迎えるにあたり、身重の妻は日増しにナーバスになっている。 「布団から湿気た匂いがして上手く眠れないの」  彼女が心底困り果ててそう言ったなら、僕に出来ることは神妙に話を聞くことでも、優しい言葉をかける事でもなく、家中の寝具をコインランドリーで洗濯する事だ。  例え、それが人っ子ひとり出歩いていない夜中だろうとも。  僕がその言外の訴えに気がつくまでに、どれほどの不毛な戦いが繰り広げられたことだろう。察しの悪さは僕の短所で、長所は簡単にへこたれないことだ。  よし、そうと決まれば彼女が寝ているうちに用事を済ませて、驚かせてやろう――そうして僕はのこのことここへやってきて洗濯機のスイッチを入れた次第だった。  上品なモーター音と共に、満月みたいな丸窓の向こう側で回転を始める。  僕は手近なスツールに腰掛けて、まるで僕のような愚直さで回転を続けるシーツ達を見守ることにした。   *   「ちょいと、ちょいと。お兄さん、そこを通してくださんせ」 「えっ?」    聞き馴染みのない口調で声をかけられ、僕はハッとして顔を上げた。眠ってしまっていたのか。  振り返っても、声の主は見当たらない。   「ちょいと、お兄さん。どこを探しておられんですか。私はここにおりますて」    目線よりずっと下方から聞こえた声の出どころを辿ると、そこに居たのは一羽のウサギだった。   「おやすみ中のところ申し訳ないけんども、ちょいとそこ開けさせてけろ」  ウサギは後ろ足だけで立っていて、前足で指差すように僕の背後にある未使用の洗濯機を示した。   「えっ、あ、すみません」  椅子ごと体をその場から退かすと、ウサギは「あんがとさん」と肩に担いでいた棒をおろすと、その先端に括り付けた風呂敷を解いて、中の荷物を洗濯機に移し始めた。    他所様をジロジロみるのは失礼だとは思ったけれど、やはり直立したウサギが前足で器用に洗濯物を扱っている様子はつい目で追ってしまう。これを気にするなと言う方が難しい。  ウサギは、まるでそれが当然のことようにテキパキと荷物を洗濯槽に放り込んでいく。普段妻に怒られてばかりの僕よりもずっと手際が良い。   「あっ、赤ちゃんの服」  ウサギの洗濯しようとしている物が何か分かった瞬間、僕は考えるより先に声を出していた。  ウサギは一瞬怪訝な顔をして僕を見たが、自分が手に持っている新生児用の小さな肌着を見て合点して頷いた。   「ああ、これね。ウチの家族にはこれくらいの大きさが丁度ええんだな」 「あっ、えっと、ジロジロ見ちゃってすみません。うちもうすぐ子供が産まれるんで親近感が湧いちゃって」 「ほお、そらぁおめでとうさんね。ウチも子どもはそれはそれは、ようさんおるよ。子どもってのはいいもんだわな」 「はぁ、いいもんですか」 「そらぁいいさ。可愛いしね、手足ひとつ動かすのにも一生懸命だしね、心が洗われるってのはこういうことさなあーって思うわな」 「……でも、大変な事も多いなって思います」  僕が思い浮かべていたのは、お腹が大きくなるのに比例して体調の優れない日が増えてきた妻の事だった。  妻が寝込んだ日は、僕は彼女にどうしてあげる事もできない。病める時も健やかなる時と力を合わせると誓って夫婦になったはずなのに、ただおろおろするしかないなんて、僕はなんて無力なんだと痛感してばかりだ。    気付いたら僕は、そんなような話をウサギにぽつりぽつりと溢していた。 「そうかぁ、たしかになぁ。大変だわな」  ウサギは前足でカリカリと頭を掻いた。 「オレも偉そうな事は言えんけどもね、兎にも角にも、まっさらなところから始めたらええと思うよ」 「まっさら?」 「そだよ。子どもってのは染みひとつねぇ新品のシーツみてぇなんだな。だってそうだろ? あいつらにとっちゃあ、何もかもが初めてなんだから」  僕は曖昧に頷いた。すごく真剣に相談に乗ってくれているけど、喋っているのは二足歩行のウサギなのだ。  ありがたがるべきか怖がるべきなのか、決断できないままに僕はウサギの話に耳を傾けた。 「それに引き替えよ、オレら大人はなまじ酸いも甘いも噛み分けてきちまったから、色々考えちまうんだなあ。だからな、頭ン中をいっぺん全部洗濯したらええと思う」 「はあ」 「つまりだ、難しいことは一旦全部忘れて、その時できる中で一番良いと思った事をしたらどうかいね。でもオレから見たら、お兄さんはもうそういう事が出来てる人やと思とるがね」  ウサギは、乾燥工程に入った僕らのシーツを指差して、まんまるな目をむぎゅと瞬かせた。  あ、今のはウインクしたのか、と僕が気付いた時には、ウサギは素知らぬ顔で洗濯機に硬貨を流し込んでいた。   「おっと」  これまで要領よくこなしていたウサギの手がぴたりと止まった。 「こいつぁ、いかんね」 「どうしました?」 「ほれ、見てけろ……タッチパネルだ」 「はぁ、本当ですね」  洗濯機は最新のものらしく、ボタンがタッチパネル式だった。ウサギは大事件にでも出くわしたかのように深刻な表情でパネルを指しているが、僕としては、本当ですね、としか言いようがない。 「こりゃあダメだ」 「どうしてですか?」 「お前さん、オレを見て何か気付かんかいね」 「気付く事ですか。ええっと……?」 「……オレ、ウサギなんだわ」 「あっ……そうなんですね……」    それは言われずとも知っている。  むしろ、あまり言及しない方が良いのかと思って気をつけていた節すらある。 「ウサギの手はねぇ、タッチパネルが押せんのだわ」 「あっ、そうなんですか」  ウサギはそのフワフワの手を悲しげに見つめた。   「こればっかりはねぇ……いかんともできん。ウサギも難儀なモンだわ」 「……じゃあ僕が代わりに押しましょうか?」 「おおっ、ええんかいね?」  それくらいなら容易い。僕はウサギに言われるままに洗濯のコースを選んで、スタートボタンを押した。  洗濯槽がゆっくりと回転を始めた。単調なリズムでぐるぐる回る洗濯物を眺めていると、次第に意識がぼんやりとしてくる。   「いやあ、助かりましたでな。このお礼は必ずさして貰うでな」 「お兄さん、きっと良い父親になりますわな。オレが保証いたしまっさ」 「オレがウチに帰ったら、何か元気の出るもん持ってきてやるべな」  遠のく意識の片隅でウサギがそう言ったのを聞いたはずだが、その後彼がどうしたのか、全く記憶がない。    次に気がついた時、ウサギも、新生児服の山も、なにもなかった。壁一面の洗濯機だけが何事もなかったように淡々と回転を続けている。  外の景色は薄く青みがかっていて、朝が近い事を告げていた。   「……夢?」  なんだか、不思議な夢だった。  早く帰って妻の顔を見たい、という感覚だけが、乾燥機から出したばかりのシーツのようにポカポカと温まっていた。   * 「やだー、これなあに?」  ようやく帰宅してベッドで眠り直した僕は、リビングに居る妻の声で目を覚ました。 「んん、どうしたの?」 「昨日、コインランドリー行ってくれたんだよね?」 「行ったよ」 「それはあとてもりがたいんだけど、あなたは、わざわざ洗濯しに行って汚して帰って来たわけ?」  彼女は僕に向かって真っ白なシーツを広げて見せた。真ん中に、大きな染みが出来ている。その足元には、放射状に転がり落ちたさまざまな食べ物が床を鮮やかに彩っていた。野菜に果物、それに……お餅?    お礼は必ずさせてもらいますでな――コインランドリーで出会った、妙な話し方のウサギが言ったことを思い出す。それと、あの夜頭上に浮かんでいた大きな満月も。  なるほどね。思わず笑ってしまう。 「ごめん、それ、コインランドリーで貰ったんだ。汚れちゃったのはまた洗っておくよ」    月夜のコインランドリーで、また彼に会えるだろうか。  妻はそんな僕を妙なものを見るような目で見ていたが、最後には「もう、なんなのよ」とやはり笑った。  彼女のこんな笑顔を見たのは久しぶりだ。    僕らのリビングを熟した甘い果実の匂いが撫でて行った。
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