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08 生命
*
『──劉はマザーに追いついたのだろうか』シュウは病室のベッドに寝ていた。
『無理だな。サイキックとしてならレベルが違う。光の道から振り落とされて、とんでもない座標に放り出されたことだろう。エベレストの頂上かもしれんし、マリアナ海溝の底かもしれん。それでもアイツは死なんがな。それと、マザーのことは心配しなくていい。彼女は穏健だ』高藤の声は弱い。最後の会話と告げて交信してきたのだ。
老齢のうえに能力酷使。よくここまでもった。親の一念というものか。
『──さらばだ、景宮クン。新世代へのバトンが、穏便に渡ることを祈る』
『現人類を代表して礼を言うよ』そんな言葉で応じるが、ヒトの多くはそう思わないだろう。
沈黙が降りた。そして、沈黙はまもなく静寂の淵に落ちる。
その静寂が、はじめて高藤との繋がりを気づかせてくれた。これまで意識もしなかった微かな背景ノイズが、きれいさっぱり消え失せたのだ。
ぽっかり空いた静寂の彼方へ、高藤は逝ってしまった。
望みは叶っただろうか。
少なくとも、娘一人を救い元妻の暴走を止めた。
けして満足ではないだろうが。
病室の窓に夕陽が射している。首が固定されているから、目だけを燃える夕陽に向けた。
故人に哀悼の意を捧げた。
あの夕陽──太陽は、生命の黎明期から地上を照らしてきたのだ……
誕生したばかりの地球を覆う大気は、96%を二酸化炭素が占めていた。微量に存在する酸素は、初期の生物にとって猛毒だった。やがて海中に現れたシアノバクテリアが光合成を始め、大量の酸素が放出される。大気に混じる猛毒の酸素はほとんどの生物を死滅させた。だが、生き延びるためなら、生命は何でもやる。一部のバクテリアが、その猛毒を利用する機関を創り出した。酸素エンジン──ミトコンドリアだ。酸素をエネルギーに変換するパワーエンジンを手に入れたそのバクテリアは、生存競争に勝利する。そして現在の生物種の祖となったのだ。
こんな考えはどうだろう。ミトコンドリアが、たとえば異星人によって与えられたナノマシンだったとしたら。ある種の生物が強化体にされ、進化を担わされたのだとしたら──
妄想じみた思いが頭を駆け巡る。
それには理由がある。凪沙とベンケイの間に生まれた子に、ブーステッド体質が遺伝していたことだ。メンテナンスを受けない子供が能力を保持するということは、生体強化ナノマシンが自己複製能を獲得した可能性がある。
いずれ、ブーステッドマンはあたりまえの存在になるかもしれない。超能力者だけが新世代ではないのだ。カンブリア紀なのだから──
250年後に訪れるブラックホール。人類にとっては未知の局面だ。
ヒトゲノムの99%を占める不明領域が、それを迎え撃つ。
不明領域には、生きものが新たな局面で生き延びるための、さまざまな設計図が用意されている。
生命は現在、35億年間に蓄えたゲノムをシャッフルし、ロイヤルストレートフラッシュを揃えようとしている。猛毒をパワーに換えたように、水の束縛を断ち陸で文明を拓いたように、物理法則の束縛を逃れ、未知の世界へ進もうとしている。
生き延びるためなら、生命は何でもやる──
ドアのノックがシュウを現実に引き戻した。
応じると、心なごむ人たちが入ってきた。
鮮やかに盛られた花籠を凪沙が胸に抱いている。
妻の背に隠れて小さくなっている大男──ベンケイは息子の周志を抱いている。
凪沙は微笑む。
ベンケイは今にも泣きだしそうだ。
くりんとした周志の目がこちらを見る。
シュウの唇が、思わずほころんだ。
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