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目を大きく見開いて、
口を大きく開いている。
彼女の顔の後ろには、笑う大きな満月が輝いている。
〆
彼の父は、彼が10歳の夏に膵臓癌で30年の短い生涯を閉じていた。
彼の母親は父より2つ年下で、18歳のときに彼を身籠った。
地元名士の一人娘とあって、それこそ真綿に包むかのように大切に育てられた生粋のお嬢様だった。
その家庭教師として国立T大生の父は雇われ、絵に描いたようにあっという間に恋に堕ちた。
当然の事だが、烈火の如く怒った母の両親から反対され密かに堕胎するように手筈を整えられた最中に駆け落ちをした。
よくある話しである。
彼の父は、大学を中退して母を連れて連れ戻されない遠い遠い街に逃げて暮らし始めた。
ふたりの生活は貧しいながらも、穏やかだった。
彼の父は、頭が良くて心根のよい男だったので真面目に仕事をし周囲にも信頼されていった。
彼の母は、優しく美しいばかりか聡明な女だったのでお嬢様ながら器用に裁縫などの内職で父を支えた。
慎ましく正しい両親のもとで、彼は大変慈しみ育てられた。
彼の父は、天文学を学ぶ将来を嘱望された学生だったが志半ばでその道を断念していた。
そんな父に、母がいつも申し訳なさそうに謝る言葉をかけるのを彼は耳にして育った。
そういう時は、決まって街外れの暗い丘に三人で訪れて月を見ながら父が宇宙の解説をしてくれていた。
父の話しは大層おもしろく、家族にとってはそれが唯一旅のような娯楽だった。
そんな家族旅行の最後は、9月生まれの彼が9歳になった年の仲秋の名月の日だった。
ちょうど満月と重なる年で、いつもの丘から観る月は子どもの彼にとっては怖いほど大きく金色におどけて笑う道化の顔に見えた。
それでも父が月の様子を話し始めると、母の後ろに隠れて覗き見ていた彼も途端にわくわくとして物語に引き込まれていった。
彼の母は、そんな彼の手を優しく握ったまま誇らし気に父の話しに耳を傾けながら、柔らかく微笑んでは月の光に頬をきらめかせていた。
それから程なくして、彼の父は病に倒れてあの丘に再び登ることなく翌年夏の騒がしい蝉の声と共に父はこの世を去った。
彼の母の憔悴は、子どもにもわかるほど酷いものだった。
たった1年ほどの闘病期間とはいえ、貧しい家族にとっては痛手である。
それでも必死に働いて、彼の父の合同葬を終える頃にはあれほど美しかった母は老婆のように干涸びてしまったように見えた。
彼が10歳になった直ぐ後の仲秋の名月の日に、彼の母は彼を連れてあの丘に登った。
その年は満月とは重ならず、少し欠けて歪な形をしていた。
まともな葬儀も行えなかったので、彼は父の不在が死と上手く結びつかなかったものの、母の様子や不気味な月を払拭してくれる父が居ない初めての丘を怖いと感じた。
彼の母は、彼と一緒にしばらくそんな月を眺めてから寂しそうに笑うと彼の手を引いて街に戻って行った。
いつものように自宅には戻らずに、行きつけの銭湯の近くにあるビルに登って行った。
ここは彼の父が働いていたビルで、たまに屋上へ花火を観に来た事があったので、ずっと母に手を引かれながら彼は父を迎えに来たのかと思って少し嬉しくなって急な階段も一緒に休まず登りきれた。
母と彼がビルの屋上に出ると、ひんやりとした風が頬を打っただけで父の姿は無かった。
夜空には、さっき見たよりも少し小さな欠けた月がポカンと浮かんでいた。
母の手をぎゅっと握る。
母の手が彼の手を握り返す。
「お父さんを迎えに行こうか」
母の柔らかな声が耳に滲んで、彼は母の手に導かれてビルの端へと歩みを進めた。
もう一度だけ母は彼に視線を落として、確認するように小さく頷いた。
それから母はゆっくりと、だけど大きく、右足を暗闇へと踏み出した。
母の向かった暗闇は、父の話してくれたブラックホールのように何にも見えなかった。
その刹那……。
彼の手は、母の手を振り払っていた。
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