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「今日から入る森隆信です。宜しくお願いします」
「ああ、宜しく」
頭を下げる俺に、六十代半ばの恰幅のいい料理長は
鷹揚に頷いた。
調理師の専門学校を卒業して就職したのは、住宅街の中にある落ち着いた雰囲気のリストランテだった。
就職、と言えば聞こえはいいが、実際は雑用覚悟の武者修行だ。給料なんか雀の涙。それでも専門学校を卒業した俺は置いてもらえるだけで有り難かった。
このリストランテは季節の食材をふんだんに使い、
素材の味を活かしたコース料理が売りの、俗に言う「ちょっといい」イタリアンレストラン。
夜程では無いが、昼のランチメニューもカジュアルなコース料理で提供している。
専門学校進学が決まった時、両親が連れてきてくれたお店だった。何でも、父が母にプロポーズをした思い出の店らしい。
まぁ俺にはどうでも良い話だけど……
俺の母は、料理を作る事が苦手なクセに舌だけは肥えていた。本人曰く、昔会社の接待などで数々の美味しい店で食事をしていたからだという。ならばもう少しマシな料理が作れないかと思ったのだが、如何せん、料理センスは皆無だったようだ。
そんな事より俺が惹きつけられたのは、この店の料理だった。ディナータイムの本格的なコースを食べたのはこれが初めてで、アンティパストの鯛のカルパッチョに始まり、プリモ・ピアットはアスパラと新玉ねぎのピッツァ、セコンド・ピアットは仔羊のロースト、コントルノはアグレッティのサラダ、ドルチェはティラミスと季節のフルーツ、最後はエスプレッソでしめくくられていた。
どれも本格的なイタリアンでありながら、旬の食材を上手に活かしている。大胆なように見えて味は繊細。
両親がワインと共に食事を楽しむ一方で、俺は全神経を集中させ一品一品を味わっていた。
「ノブ、ここの料理は気に入った?」
「……うん」
小さなカップに入った食後のエスプレッソを二口で飲み干す俺を見て、両親は顔を見合わせると満足げに微笑んだ。
その味と、その笑顔が忘れられなくて。
俺は専門学校を卒業したらこのリストランテで働く事を目標に頑張ってきた。
「じゃぁまず、野菜の下処理から」
「はい」
料理長に代わって教えてくれる先輩に声をかけられ、俺は初仕事となる野菜の下処理に取り掛かった。
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