帰れない者たちへ

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駅を降りて家に向かっていた。 6ヶ月かかった仕事も、やっと目途がついて、久しぶりに残業のない1日の終わりである。 この街に引っ越しをしてきて、もう10年になるのか。 そんなことを考えながら、日の落ちかけた、いつもの道を歩いている。 「あっ、危ない。」 路地から猫が飛び出してきて、ケンジの足にぶつかった。 猫は、ケンジの顔を、ビックリしたような目で見て、意外にも、ケンジの足に纏わりついてきた。 身体を、ケンジに擦り付けながら、ケンジの周りをグルグルと回っている。 「なんだよ。人懐っこい猫だな。」 そう呟いたら、プイと、また路地に走って行った。 その先を見たら、道幅1メートルぐらいの狭いビルとビルの間の路地があって、その先に電飾の看板が見えている。 「あれ、こんなところにお店があったかな。」 ケンジは、ちょっと覗いてみようぐらいの好奇心で、その狭い路地を入って行った。 そこに、小さな喫茶店があった。 「喫茶 黒猫」なんて、ひょっとして、さっきの猫も黒猫だったよね。 気になったケンジは、ドアを開けていた。 カウンターだけの店には、インドかどこか東南アジアっぽいコットンの生地のワンピースを着たロングヘアーの50才ぐらいのママがいた。 カウンターには、おなじぐらいの年齢の男性の先客がひとり。 「うちの店、初めてでしょ。」 ママが言った。 「ええ。いつもは、表の道を素通りしていたんですが、さっき、猫とぶつかったんですよ。その猫が、この路地に入って行ったんです。それで、ふと見ると、ここの看板が見えたものですので、気になって入ってきました。」 「ああ、黒ちゃんね。そうだ、身体をスリスリしてこなかった?」 「ええ、人懐っこい猫ですね。ここのお店の猫なんですか?」 「やられましたね。」カウンターの男性が言った。 「絶対にやられてるわ。あの猫ね、身体にノミが付いた時は、そうやって、人に身体を擦りつけてノミを取るのよ。そうそう、あの猫は、言っとくけど、この店の猫じゃないわよ。野良猫よ。それと、店名とは関係ないわよ。」 ケンジは、そう聞くと、急に脚の辺りが痒くなってきたような気がしてきて、ズボンの裾をめくってみた。 「今は、まだ血を吸わないわよ。」 「えっ。血を吸うんですか。」 「そうよ。吸うわよ。でも、今は吸わない。あなたが、家に帰って、美味しものを食べるでしょ。そしたら、血も栄養たっぷりになるのね。それを待って、ノミは、血を吸うのよ。」 「そんなバカな。」 「たぶん、あなたが寝た頃よ。血に栄養が回った時に、あなたの寝ている隙に、チューって吸われちゃうの。」 ママは、悪戯っぽい目でケンジを見た。 笑った時に出来たエクボを見たら、ママが口紅をしていないことに気が付いて、ドキリとした。 何もつけていない唇の皮膚が妙に薄くて、血が滲み出てきそうな赤い色をしている。 「でも、気を付けないとダメですよ。知らない間に、ノミが増えていっちゃうから。お風呂に入っても無駄よ。ノミは、死なないわよ。」 「もう、そんな気持ち悪い話は、やめてよ。体中が痒くなっちゃうじゃないですか。」 「全身が、ノミに占領された人もいるぐらいです。」カウンターの男が言った。 「身体じゅう。ノミに占領されたんですか。」 「痒くて身体を掻くとね、ポロポロとノミが落ちて、床が真っ白になったそうだよ。そう、雪みたいに、足許に積もるんだ。」 「そんなバカな。」 「死んだよ。その男。」 「死んだって、、。」 「三日三晩、痒い、痒いって、呟きながら、全身を両手で掻きむしって、死んだんだ。」 「嘘でしょ。」 「なんなら、その男のお墓もあるよ。この店の前の路地を、左に入って行ったら、そこにポツリと1つの墓があるんだ。それが、その男の墓だ。」 「もう、その辺にして置いたら。」とカウンターの男をママが制して、「でも、お墓は見に行っていいけど、その先は、行かない方がいいですよ。」 「行かない方がいいって、どういうことですか。」 ママは、少し考えて、「迷子になっちゃいますよ。」と続けた。 それにしても、不思議な空間で、不思議なお店で、不思議な時間だなと、ケンジは、その非日常を楽しんでいたのかもしれない。 自宅に帰ったケンジは、奥さんのマリコに、さっきの喫茶店の話をしていた。 「ふーん。そんなお店があったんだ。」 「そうなんだよ。人は、日常を、ただ、何となく生きてしまって、この世界にあるものを、ほとんど、何も見てはいないのかもしれないね。気が付いた人だけが、路地を発見して、そこに喫茶店があることを発見する。ひょっとしたら、他にも路地があるのかもしれないし、いや、路地じゃなくてもいいんだ。日常のちょっとした、何処かに、何かがある。ずっと昔からあるんだけれど、誰にも見えていない。そんなことがさ。」 「じゃ、あたしたちの家の中にも、いままで気が付かなかった、何かがあるかもしれないってことだよね。」 「そういえば、そうだね。この部屋にもあるかもしれないぞ。」 「ずっと、気が付かない、家にある物、、、。」 「あっ、へそくり。」 「バカね。あたしが、へそくりなんて出来るはずないでしょ。それに、あたしがへそくりしたんなら、あるの始めから分かってるじゃない。」 「あはは。そうだね。貧乏だから、へそくりなんて、出来ないか。」 そう言ったケンジは、少しばかり、マリコに、申し訳ない気持ちになった。 ケンジは、余程、このお店が気に入ったのか、いや、気に入ったのは、お店じゃなくて、この路地かもしれないが。 翌日の休みには、ひとり、散歩がてら、あの路地の喫茶店に向かっていた。 でも、お店に入る前に、気になっていたところに行ってみようと思う。 あの、ノミで死んだ男の墓である。 店の前の路地を少し入ると、ビルの角が、50センチほど、かぎ状に切り取られていて、そこに、小さな墓があった。 苔むしてはいるけれど、手入れされた墓の文字を読むと、「ノミ太郎の墓。」と彫られている。 「ノミ太郎って、、、そんな名前の人間、実在してる訳ないだろう。」 とはいうものの、墓は、そこに、間違いなく実在している。 「名前が、無かったのよ。その男。」 急に背後から声がしたので、ケンジは、腰が抜けそうになった。 振り返ると、喫茶店のママだった。 「そんな、声を震わして、幽霊のような声を出す必要ある?」 「ああ、今のね。声震わした方が、雰囲気が出るんじゃないかなって。」 「いや、雰囲気は、結構です。それにしても、お墓、本当にあるんですね。」 「本当よ。あ、そうだ。お店に寄って行ってよ。」 というので、お店に寄って、他愛のない話を30分ほどして、お店を出た。 でも、気になっていることがあったので、お店の前を左に歩き出した。 昨日の話では、お墓があって、その先には行っちゃダメだって言ってたよね。 「そう言われれば、行ってみたくなるんだよねー。僕は、天邪鬼でーす。」 その最後の「天邪鬼でーす。」が、自分でも、ビックリするぐらいにはしゃいでいることに気が付いた。 墓を通り過ぎて、角まで来たら、その向こう側に喫茶店があった。 「なあんだ。こういうことか。ここにもお店があるから、先には行っちゃダメだって言ったんだね。あはは。別に、喫茶店の浮気をするつもりはありませんよ。さて、あれ、この右側にも路地があるな。」 ケンジは、自然と、右の路地に入って行った。 知らない道を歩くことが、こんなにも刺激に満ちた楽しいことであることを知らなかった。 すると、路地の奥に、15階建てぐらいだろうか、高いマンションが建っている。 「ふーん。こんなところにマンションね。気が付かなかったなあ。」 と見上げた時に、妙な違和感を覚えた。 ケンジが、始めに入った路地のある一角は、正方形の形をしていて、路地を歩いてきた道順を考えると、このマンションは、ケンジの住むマンションの、大きな通りを隔てた向かいに建っていることになるじゃないか。 なのだけれど、こんな15階建てのマンションなんて、見たことが無い。 いくらなんでも、こんなビルが、目の前にあったら、気が付くはずである。 ケンジは、意味もなく、ただ漠然とした不安を覚えて、今来た路地を引き返し、ケンジのマンションの向かいに、小走りで向かっていた。 そして、そこで、愕然としたのである。 15階建てのマンションなんて、ここには、存在しない。 というか、路地の一角のどこにも、15階建てのマンションは、無いのだ。 「そんなバカな。」 ケンジは、その真相を確かめたくて、また、さっきの路地に入って行った。 「ここを、こうやって、、、ほら、やっぱり、15階建てのマンションがあるじゃないか。一体、どうなってるんだ。」 ケンジは、マンションの前で、今来た道を頭に描いて、自分の位置を確かめようとしていた。 「どういうこと?」 そんな時に、マンションの横に路地があるのを見つけた。 「ここにも路地が。ということは、この路地を抜けたら、僕のマンションじゃないか。よし、それを確かめよう。」 ケンジは、何が何か解らないまま、路地を抜けた。 「ほら、やっぱり、僕のマンションがあるじゃないか。あれ?でも、今出て来た路地にもマンションがある。どうなってるんだ。さっきは、このマンションなかったよね。というか、今までも無かったよね。」 ケンジは、どうにも理解が出来なかったが、これ以上、ここにいても正解が出そうになかったので、家に帰ることにした。 マンションの家のドアを開けると、奥から「おかえりなさい。」と声がした。 「ああ、ただいま。」と、リビングに行くと、ケンジは、知らない女性がいることにビックリした。 というか、その場の状況が理解できないで、ただ、立ちすくむしかなかった。 女性は、ケンジを見て、ギョッとしたが、すぐに、冷静な表情に変わって、「おかりなさい。」と、もう一度、静かな口調で言った。 女性は、意味が解らず、立ちすくんでいるケンジを、リビングの椅子に促して、女性も、その前に座った。 「そうよ。この家は、間違いなく、あなたの家よ。びっくりしたでしょ。」 「あなたは、誰なんですか。」 「あたし?そうよね。お互いに自己紹介しましょうよ。始めて会ったんだから。あたしは、ケイコよ。一応、今の名前は、山口ケイコ。」 「僕は、中村ケンジです。」 「それじゃさ。今の状況を説明してあげましょうか。っていうか、これもあたしの想像なんだけどね。あなた、どこかの路地とか、今まで気が付かなかった場所に行ったりしなかった?」 「えっ。何で知ってるの?路地を、探検してた。」 「やっぱり。あなたね、別の世界に来ちゃったわよ。」 「別の世界って?」 「パラレルワールドっていうのかな。今住んでる世界と、ほとんど同じ世界が、同時に、いくつも別の次元に存在しているって知ってる?信じられないかもしれないけど、新しい路地を発見した時に、そこから、今いる、この世界に瞬間移動しちゃったの。」 「信じられないよ。だって、この部屋だって、僕の部屋と同じなんだよ。」 「だから、パラレルワールドなのよ。同じ世界がいくつもあるのよ。あのね。今日の朝までね、あなたに瓜二つな人が、ここに住んでたのよ。あなたの分身。っていうか、どっちも、本人で、どっちも分身なんだけどね。でも、あなたと瓜二つだけど、そこは、夫婦だから、すぐに解ったわ。あの人じゃないって。」 「僕は僕で、このマンションもこのマンションで、あなたは、僕の元いた世界のマリコじゃない。」 「いつか知らない、昔に、きっと、元の世界でも、あたしたち、どこかで巡り合ってたのよ。それで、その時に、お互いに付き合ったりしていたら、今のこの世界で夫婦になってたのかもしれないよ。」 「でも、ここにいた、僕の分身は、どこに行ったのかな。」 「ねえ、どこに行ったんだろう。っていうか、あたしの旦那を、分身にしないでくれる。あなたが、知らないこの世界の入口に入って行ったから、その瞬間、あたしの旦那が、どこかに行っちゃったのよ。いうなら、あなたのせいなのよ。」 「僕のせい、、、。」 「あ、言い過ぎたかな。というか、あたしも、あなたのことを責められないのよね。あたしも、10年ぐらい前だったかな、知らないお店に入って、そこのトイレを借りたのよね。ふと気が付いたら、反対の壁にもドアがあるじゃないと思って開けたら、そこにまた別のお店があってね。気が付いたら、こっちの世界に来ちゃってたの。その時は、焦って帰る道を探したわよ。でも、無駄だった。もう帰れないと諦めた時に、あなたというか、夫に出会ったの。そして今なの。あたしも、あたしが、この世界に来たことで、もともといた、あたしの分身が、どこかの世界に行っちゃってるのよね。あたしも、あなたも、同罪って訳よ。」 「そうだ。今から、帰り道を探してみるよ。」 「疲れてるでしょ。ご飯作ってるから、それ食べてからにしたら?」 「いや、でも。元の嫁が、っていうの変だけど、たぶん、心配してると思うんだ。」 「大丈夫よ。あなたがこっちに来たことで、元の世界にも、あなたに瓜二つな人が現れてるからさ。きっと、気が付かないでいるかもよ。それに、もう戻れないんだって。」 「戻れないって。」 「そう。あたしみたいに、もう戻れない。」 彼女のいうのが本当なら、諦めるしかないのか。 僕が、別の次元から来たことを、すぐに見分けたぐらいだから、彼女もまた、別の世界から来たことは、たぶん、本当のことなのだろう。 不思議な事だが、ケンジは、薦められるままに、早い時間の夕食を食べていた。 「うん。これ、僕の好みの味だよ。」 「そうでしょ。あなたと同じ人が好きだった味だもん。」 知らない間に、ふたりは、気が合ったのか、そのまま ベッドを共にした。 それは、浮気であることは、間違いがないのだろうが、何故か、今までも、ずっとお互いに知っていたかのような感覚があった。 「おはよ。」 ケイコは、妙に明るい声で、タクミを起こした。 「ああ、おはよう。そうだ。やっぱり、帰り道を探してみるよ。ごめんだけど。いいかな。」 「ええ、いいわよ。でも、もう無いよ。帰り道。」 「断言できる?」 「ええ、だって、昨日、あたしと一夜を伴にしたでしょ。あれで、帰れなくなっちゃったんだよ。」 「ちょっと待ってよ。あれで帰れなくなったって、どういうこと。」 「あのね。ひょっとしたらだよ。昨日、あのまま帰り道を探したら、まだ、路地はあったかもしれないってことなの。でも、昨日、あたしと寝たでしょ。あれで、こっちの住人になったってこと。」 「僕を騙したって事?」 「あたしね。実は、あなたに、って言うか、前のあなたにね、DVを受けてたの。ずっと、何か機嫌が悪くなると、あたしのことを殴ってたの。ほら、あざだらけでしょ。もう、こんな生活、嫌だって思ってたの。でも、出会った頃のあの人は、やさしかったし。踏ん切りがつかないでいたのね。そんな時に、あなたが現れたのよ。あなた、優しそうだし。一緒に、いれたらなって。昔のあの人を、あなたに見たっていうのか。」 「そんな無茶な。じゃ、もう僕は帰れないって事?いや、やっぱり、探しに行くよ。」 そう言い残して、タクミは、家を出ていった。 そして、1時間ほどして帰ってきたタクミに、ケイコが言った。 「ね、帰り道、無かったでしょ。」 タクミは、わざと、帰り道を失わせたケイコを怒る気にはなれなかったが、どうにも、やり場のない、いら立ちが治まらなかった。 「ねえ。もう諦めたら。っていうか、朝ごはん、まだでしょ。ね、食べよ。」 タクミは、言われるままに、朝食を食べた。 この世界で、タクミの居場所は、もう、この家しかない。 ということは、当分は、この家で暮らすしかないんだ。 ということは、このケイコという女と、一緒に暮らすということだ。 そして、ふたりの生活は始まった。 ケイコは、別に、どこが悪いというところもなく、むしろ、家庭的で、ここを居心地の良い場所にしようと務めてくれている。 それに、そこそこ可愛いのも、まあ、悪くはない状況ではある。 そんな暮らしが、1年ほど続いた。 知らない人と暮らし始めたのは、ある意味、新鮮ではあったのだろう。 再婚する人というのは、こういう気持ちなのだろうかとも想像したりした。 いつのまにか、ケイコが、タクミにとって、大切な人に変わっていったのだ。 とはいうものの、いつも、元の世界のマリコの事が気になっていた。 どうしているのだろうか。 僕が、突然、いなくなってしまって、心配しているだろうなと、そう思うと、今でも、こころが締め付けられるようだ。 マリコの事を思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。 しかし、今のタクミには、どうすることも出来ない。 今は、運命と受け入れるしかないのかもしれないと、諦めかけているタクミがいる。 「ねえ。ここのスパゲティ、昔の喫茶店のナポリタンみたいで、美味しいよね。」 ケイコと、新しく出来た喫茶店に来ていた。 「うん。懐かしい味だね。」 そう言った時に、ドアが開いて、カップルが入ってきた。 「マリコ?」 それは、元の世界のマリコだった。 タクミは、思わず駆け寄って、「マリコか?」と聞いた。 マリコだと思った女性は、びっくりしたようにタクミを見て、「誰ですか?」と不審そうに見る。 「あ。ゴメンナサイ。ねえ、あなた、別の人よ。ごめんなさいね、本当に。知り合いに似ていたものですから。」 そう言って、ケイコは、タクミを席に連れ戻した。 「ふーん。あの人が、元の世界の奥さんなのね。っていうか、元の世界の奥さんじゃなくて、今の世界の知らない人なのね。」 「僕のこと、知らなかったよね。」 「それはそうよ。この世界の人だもん。でも、優しそうな人ね。きっと、向こうの世界でも優しい人だったんでしょうね。」 「ああ。優しかったよ。」 「会いたい?」 「そりゃ、会いたいさ。っていうか、謝りたいよ。こんなことになって。」 「あなたが、可哀想。でも、あたしは、幸せよ。今のあなたといれて。あなたのことが好き。でも、やっぱり、あなたにとって、あたしは、1番の女じゃないのよね。分かってはいるけど、今のあなたを見てたら、それを強烈に感じちゃった。1年、一緒に住んでるけど、あたしより大切な人がいる。そりゃ、そうよね。あたしが好きで一緒に暮らしてる訳じゃないもんね。」 「そんな変な事言うなよ。ケイコも大切な人だよ。」 「『も』ね。あはは。『も』でも、まあ、いいか。」 タクミは、喫茶店の隅に座ったマリコを見た。 その幸せそうな顔を見て、前の世界のマリコであって欲しいと思った。 前の世界のマリコに、この世界に来て欲しいという意味ではなく、前の世界で、今のマリコの様に、幸せな笑顔で暮らしていて欲しいと言う意味だ。 「ねえ。この先に、細い路地があるの知ってる?ねえ、そこ入ってみない?ひょっとして、前の世界に戻れるかもしれないよ。」 喫茶店を出た二人は、何も言わずに、路地に入って行く。 「ねえ。もし、あたしとあなたが、あなたの前の世界に瞬間移動したらさ。そこに、前の奥さんがいる訳でしょ。そしたら、あたしのこと捨てる?あはは。冗談だよ。」 それを聞いた時、タクミは、どんな顔をして、さっきの喫茶店で、この世界のマリコを見ていたんだろうと自問した。 ケイコは、それを見ていた。 こんな気持ちにさせたのは、紛れもない僕じゃないか。 タクミは、ケイコの手を取って、回れ右をして、また来た道を引っ張って行く。 「やっぱり、家に帰ろう。僕たちの家にさ。」 「うん。ねえ、帰りにケーキでも買って帰ろうよ。」 路地の入口まで戻ったら、急に、今までの街とは違う新鮮な風景が現れた。 樹々が爽やかな風に吹きさらされて、カラカラと、軽快な音を立てている。 でも、そこは、紛れもない今の世界だ。 タクミは、新しいこれからが始まるような気がしていた。
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