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新しい世界
ローゼとユリアンを乗せた馬車は、街を出て郊外を走り続けた後、やがて立派な門をくぐった。
更に、美しく整えられた庭木の間に敷かれた石畳の道を、しばらく進んでから、馬車は停止した。
靴を履いていないからと、ユリアンは袖なし外套に包んだローゼを抱きかかえて馬車から降りた。
ローゼの目の前にそびえているのは、彼女がいたところよりも更に立派な屋敷だった。
ユリアンの帰宅を受けて、使用人が玄関の扉を開けた。
玄関ホールでは、年の頃は五十前後といった男がユリアンを出迎えた。
服装から見て、この屋敷の執事だろうかと、ローゼは思った。
「若さ……いえ旦那様、お帰りなさいませ」
「まだ、若様扱いが抜けないのか」
「失礼いたしました。旦那様のお小さい頃から、お仕えしているもので」
言って、執事は柔和な笑みを浮かべた。
「じいやには、敵わんな」
ユリアンの態度からすると、この執事は、かなりの古株なのだろう。
「ところで、そのお方は?」
執事が、ユリアンに抱きかかえられているローゼに目をやり、言った。
「デリウス子爵の屋敷で保護したのだが、うちで預かることになった。客人として扱え」
「承知しました。では、お部屋を用意させましょう」
執事は、主人であるユリアンに対し一言の質問もすることなく頷くと、どこかへ歩いていった。
「エルマは、いるか」
ユリアンが、女と思われる者の名を呼び、辺りを見回した。
「こちらに」
どこからともなく現れたのは、こちらも古株だろう、気難しそうな中年女性だった。おそらく、女中たちを取り仕切る家政婦長と思われる。
「彼女の面倒を見てやってくれ。とりあえず、この格好を何とかしろ」
ユリアンは、そう言うと、ローゼを自分の腕から、そっと下ろした。
「かしこまりました」
エルマと呼ばれた女は無表情に答えると、ローゼの方を向いた。
「では、私がご案内します」
ローゼはエルマの後について、屋敷の明るく塵一つない廊下を歩いていった。
「まず、こちらで湯浴みをどうぞ」
最初に案内されたのは、大理石で造られた広い浴室だった。
大きな浴槽には、なみなみと湯が満たされている。
「石鹸と、こちらは身体を洗う海綿です。着替えは、ここを出たところにある脱衣所に用意させますので」
エルマに石鹸と海綿を渡されたローゼは戸惑った。
デリウス子爵の屋敷にいた頃は、時折、水に浸した布で身体を拭く程度で、このような風呂を使ったことなどなかったのだ。
「あ、あの、私……どうしていいか、分かりません……」
呟いて、ローゼは俯いた。
それを見たエルマは、はっとした顔で、少しお待ちくださいと言い残して一旦どこかへ行ったかと思うと、間もなく前掛けを着けた姿で現れた。
「気付かなくて、申し訳ありません」
エルマは、羽織っている袖なし外套を脱いで、浴用の椅子に座るよう、ローゼに促した。
ローゼは言われるままに、一糸まとわぬ姿で椅子に座った。
エルマは良い香りのする石鹸を海綿でたっぷりと泡立て、ローゼの汗と埃にまみれた身体を念入りに洗いだした。
身体に湯をかけられたローゼは、慣れない熱さに驚いたものの、それを心地良く感じるまでに時間はかからなかった。
全身を隅々まで清められ、柔らかな布で水気を拭われた後、ローゼは清潔なワンピースを着せられた。
エルマによれば、ワンピースは使用人への支給品という話だったが、以前身につけていた粗末な服に比べれば、はるかに上等なものだ。
更に、洗った長い黒髪も丁寧に櫛で梳かれ、少量の香油を塗られて艶を増した。
「鏡を御覧になってみては如何ですか」
エルマに言われて、ローゼは脱衣所の壁に掛けられた姿見を見た。
自分の姿を、じっくりと鏡で見るなどということも、彼女にとっては初めてだった。
汚れを落とされた、透けるように白い肌に映える黒髪、小さ目な顔と長い睫毛に縁どられた青い大きな瞳、豊かな膨らみを見せる胸元とは対照的な、細く括れた胴――そこにあったのは、美しい少女の姿だった。
「若様……いえ旦那様も驚くでしょうね」
エルマが、微かに口元を緩ませた。気難しそうに見えるが、思った程は恐ろしい人物ではないのかもしれないと、ローゼは少し安堵した。
「食堂に、お食事を用意させましたので、ご案内します」
エルマに案内された食堂は、ローゼが想像していたよりも、ずっと広いものだった。
長い食卓の、入り口から最も遠い席に、ユリアンが座っていた。
「お前も、空腹だろう? ここに来て座れ」
ユリアンに手招きされ、ローゼはおずおずと彼に近付いた。
食卓に近付くと、傍に控えていた給仕係が椅子を引いた。
そのような経験のないローゼは、少し逡巡してから、給仕係の引いた椅子に腰を下ろした。
着席したローゼを改めて見たユリアンが、僅かだが驚きの表情を浮かべた。
「……見違えたぞ。さすがは、エルマだな」
「いえ、ローゼ様は元が良いのですよ」
ユリアンの言葉に、エルマは首を振って答えた。
元が良い、というのは、悪い意味ではないのかもしれないと、ローゼは考えた。
やがて、ローゼとユリアンの前に食事が運ばれてきた。
まだ朝に近い時間帯であり、食卓に並べられたのはパンと紅茶、彩りのいい野菜の盛り合わせや果物、目玉焼きと塩漬け肉の燻製にスープといった軽いものだ。
しかし、食事と言えば硬くぼそぼそしたパンに、せいぜい薄いスープが付く程度だったローゼにとっては、未知の世界である。
「あの、これ、食べてもいいの……ですか?」
「あぁ、目の前にあるのは、全部お前の分だ。好きなだけ食べればいい。多ければ残しても構わん」
ユリアンに言われて、ローゼは目の前にあったパンを手に取り、ちぎって口に運んだ。
まだ暖かく、白く柔らかな、ほんのり甘みのあるパンは、ローゼの知るそれとは、全くの別ものに思えた。
気付けば、ローゼは出された食事を全て食べ終えていた。
考えてみれば、彼女にとって食べ物が美味しいと感じたのは、初めてのことだった。
「どうやら、気に入ったようだな」
やはり食事を終えたユリアンが、ローゼに目をやりながら言った。
「俺は夜通し扱き使われていて疲れたから一休みする。お前は、好きにすればいい。何か分からないことがあればエルマに聞け」
ユリアンは自分が言いたいことだけ言うと、席を立って食堂から出て行った。
「では、ローゼ様は、お部屋にご案内しますね」
エルマに促されて、ローゼも席を立った。
ローゼの為に用意された部屋は、客室の一つらしかった。
彼女の目から見ても、上品な内装や調度品が非常に高価なものであると分かった。
人が三人は寝られるくらい大きな寝台と、長椅子や卓子、彫刻で飾られた衣装箪笥や棚が配置されても尚、部屋の空間には余裕がある。
「私一人で、こんなお部屋、使っていいんですか……?」
室内を見回しながら、ローゼは言った。
これまで住んでいた世界とは、あまりにかけ離れていて、彼女は恐ろしささえ感じていた。
「もちろんです。御用の際や、何か困ったことがあれば、この呼び鈴をお使いください」
エルマは言って、卓子の上に置かれた呼び鈴を指し示した。
「お疲れかと思いますので、ローゼ様も少しお休みになられては如何でしょう。この屋敷の詳しいことは、その後でお話させていただきます」
たしかに、急激に色々なことが起こり過ぎて、ローゼは疲れていたし、空腹が満たされた所為か、眠気も催していた。
エルマに渡された寝間着に着替えると、ローゼは寝台に潜り込んだ。
石の床に敷いた毛布の上とは違う、柔らかな寝台の上で、かけているのを忘れそうなくらいに軽い羽根布団に包まったローゼは、その暖かさと心地良さで、間もなく眠りに落ちていった。
――これが夢で、目が覚めた時、元いた地下室に戻っていたらどうしよう。
眠りに落ちる刹那、ローゼは、そんなことを思った。
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