捨て犬から淑女へ

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捨て犬から淑女へ

 与えられた部屋で眠っていたローゼが目覚めたのは、夕方に近い時刻だった。  自分のいる場所が、(もと)いた地下室ではなく、ユリアンの屋敷であるのを確かめて、彼女は安堵した。  いつも、寝て起きた時は身体のどこかが痛むものだとローゼは思っていたが、柔らかな寝具で身体を伸ばして眠った所為か、これまでになく快適な気分だった。  頃合いを見計らっていたのか、家政婦長でありローゼの世話係でもあるエルマが、部屋にやってきた。  寝間着から再び普段用のワンピースに着替えたローゼは、エルマの案内で屋敷の中を見て回った。  広く清掃の行き届いた屋敷の中には、花のような良い匂いが漂っており、(かび)臭い地下室とは別世界のようだ。  また、屋敷の内部には、裕福な貴族の住居らしく、魔法を動力とする「魔導具」が数多く揃っている。  平民たちの間では、まだまだ魔導具は高価な贅沢品だ。  室内の照明や、気温と湿度を快適に保つ空気調和装置といった生活用品も、全て「魔導具」なのだという。 「お風呂の湯も、常に魔導具で生成していますから、掃除の時間以外は、いつでも利用していただいて大丈夫ですよ」  エルマから説明され、貴族は毎日入浴するのだと、ローゼは驚いた。  だが、湯で身体を洗ってもらった際の気持ち良さを思い出し、少し嬉しくもあった。 「あの、ユリアン様は、どこにいらっしゃるのでしょうか」  ローゼは、おずおずとエルマに尋ねた。 「旦那様は、仮眠を取られた後、お仕事が残っているということで、お出かけになりました」  エルマの返答に、ローゼは寂しい気持ちになり、肩を落とした。  ごみ溜めのような場所から、このような綺麗な世界へと連れ出してくれたユリアンに礼が言いたいと、ローゼは思ったのだ。 「旦那様は、一、二週間に一度、この屋敷に戻られます。それよりも、ローゼ様には色々とやっていただくことがありますよ」 「私の……やること?」 「旦那様のお言いつけで、ローゼ様には読み書きや計算、一般常識、そして礼儀作法を学ぶための家庭教師を付けさせていただきます」  そういえば、ユリアンが、そのようなことを言っていた――と、ローゼも思い出した。  奴隷として扱われていた頃は、ひたすら扱き使われていて、読み書きを覚えるなどという発想すらなかった。 「わ、私……そんなに沢山、できるでしょうか」 「慌てなくても、ゆっくりやっていけばいいのですよ」  不安に俯くローゼの背中へ、エルマが労わるように手を当てた。  翌日から、ユリアンが呼び寄せたという家庭教師について、ローゼは様々なことを学び始めた。  家庭教師は、読み書きや計算その他の一般常識を教える者と、礼儀作法を担当する者との二人で、共に女性だった。  彼女たちは、たとえローゼが何か失敗したとしても、決して叱ったりせず、常に優しく丁寧な態度で接し、優れた点があれば惜しげなく褒めた。  ローゼは家庭教師たちに覚えが良いと言われた。  これまで学習する機会が無かっただけのローゼは、乾いた地面が際限なく水を吸い込む如く、読み書きを始め、色々な知識を吸収した。  屋敷の大きな書庫には、あらゆる分野の書物が収められていた。  ローゼは自分が読めそうな書物を、辞書を引きながら読む楽しみを覚えて、書庫に入り浸るようになった。  エルマや執事を始めとする屋敷の使用人たちも、ユリアンからローゼを客人として扱えと言いつけられているのもあるとはいえ、(みな)親切だった。  監視役の機嫌一つで、いつ折檻されるか分からなかった生活とは雲泥の差だと、ローゼは思った。  未知の世界に怯えていたローゼも、暖かく迎えてもらえる環境を得て、少しずつではあるが、伸び伸びと生活できるようになっていった。  二週間ほどが過ぎた頃、その日の夕刻、ユリアンが屋敷に帰ってきた。  執事やエルマたちと共に、ローゼはユリアンを出迎えた。 「少し見ない間に、顔色が良くなったな。そのドレスも似合っているじゃないか。まるで、どこぞの令嬢のようだ」  仕立て屋に(あつら)えさせたドレスに身を包み、礼儀作法の教師に習った上品なお辞儀をしてみせるローゼを見て、ユリアンが、僅かにだが口元を綻ばせた。 「何か不満な点は、ないか?」  ユリアンに尋ねられたローゼは、ぶるぶると首を横に振った。 「と、とんでもないです……お食事も美味しいし、勉強もさせていただいて、服も沢山(あつら)えていただいて……柔らかい寝台で眠ることができて……誰も……私を叩いたりしないし……」  ローゼの大きな目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。 「どうした、腹でも痛いのか?」  やや驚いた表情を見せたユリアンが、ローゼの顔を覗き込んだ。 「ち、違います……こんなに大事にしてもらうの……初めてで……」  ローゼにとって、ユリアンは恩人に他ならない存在であり、彼の顏を見て感極まってしまったのだ。 「……ふん、大したことではない。会った時のお前は、あまりにみすぼらしくて酷い有様だったからな。捨て犬や捨て猫を拾うのと変わらん」  ユリアンは、ローゼから目を逸らして言うと、屋敷の奥へと歩き去った。 「私……何か、ユリアン様のご気分を害することをしてしまったのでしょうか……」  不安に駆られたローゼは、傍らに立っているエルマの顔を見上げた。 「若さ……旦那様は、時々あまり素直ではない物言いをされることはありますけど、根は優しい方です。ローゼ様に感謝されて、少し照れてらっしゃったのかもしれませんね」  エルマの言葉に、ローゼは、ユリアンが何故、自分を相手に照れたりするのかと首を傾げた。
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