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苦くて甘い
「ローゼ様は化粧などしなくても十二分に綺麗ですけど、折角のお出かけですからね」
外出着に着替えたローゼに、うっすらと化粧を施しながらエルマが言った。
控えめな色の頬紅と口紅を塗っただけだが、ローゼは鏡の中の自分が変貌していく様を、内心驚きながら眺めていた。
身支度を終えたローゼは玄関へ向かった。
今日は家庭教師たちによる授業が休みということで、ユリアンと共に街へ出かけるのだ。
「女の仕度というのは、時間がかかるものだな」
玄関で一足先に待っていた様子のユリアンが、ローゼの姿を見て言った。
「申し訳ありません……」
思わず小さくなるローゼの頭に、ユリアンが優しく手を乗せた。
「別に怒ってなどいないぞ。お前になら、エルマや女中たちも手のかけ甲斐があるだろうと思っただけだ」
ユリアンが自分を褒めているのだと気付いたローゼは、頬が熱くなるのを感じた。
ローゼとユリアンを乗せた馬車は、郊外から王都である「街」へと入った。
馬車を待機場に止めて、ユリアンはローゼと共に街へと出た。
国で最も大きな都市だけあって、高い建物が隙間なく並び、数えきれない人々が歩いている様子に、ローゼは眩暈に似た感覚を覚えた。
「俺の腕に掴まっていろ。迷子になったら目も当てられないからな」
言って、ユリアンが差し出した彼の腕に、ローゼはおずおずと手をかけた。
「学生の頃は寮で生活していたから、外出日になると街へ出て気晴らしをしたものだ。今は、自分から出かけて買い物をするなどということは、なくなってしまったが」
歩きながらユリアンは他愛のない話をした。
それがローゼの気持ちを和ませようとする、彼なりの気遣いなのだということに、彼女も気付いていた。
ふとローゼは、傍を歩いている者たちの視線が自分たちに集まっているような気がした。
「……ユリアン様、街の人たちが、私たちを見ているように思うのですが……」
少し怖くなったローゼは、思わずユリアンの腕を握りしめた。
「なに、お前が美しいから気になるのだろう。男どもの目に触れることまで考えていなかったのは迂闊だったが、万一、何かあれば俺が守ってやるから心配するな」
ユリアンが、そう言いつつローゼの肩を抱き寄せた。
彼の温もりに、ローゼは、初めて会った時のことを思い出した。
ろくに入浴もできず、ひどく汚れていたであろうローゼを、ユリアンは嫌な顔ひとつ見せずに抱き上げて運んだ――この人は、信じていい人なのだと、ローゼは改めて思った。
ユリアンの案内で、ローゼは、彼が学生の頃に気に入って通っていたという喫茶店へ入った。
二人は、名物だという華やかな焼き菓子と、泡立てた乳脂を浮かべた珈琲を注文した。
「その珈琲は、砂糖を入れて甘くしても旨いぞ。俺も、甘いほうが好きだ」
「では、私も、お砂糖を入れてみます」
ユリアンの勧めで砂糖を入れた珈琲は、ほろ苦さと甘さに乳脂のコクが合わさって、ローゼには、とても美味しく感じられた。
と、近くの席に座っている若い女性たちの会話が聞こえてきた。
「……あの二人、服装から見て貴族の方かしら」
「庶民の生活が珍しいのかしらね」
「二人とも綺麗ね。きっと恋人同士ね」
「いいなぁ、私も素敵な殿方と逢引きしてみたいわ」
「あんまり見ると、気付かれるわよ」
我知らず顔を赤らめているローゼに気付いたユリアンが、口を開いた。
「ローゼ、どうかしたのか」
「あ、あの……私なんかがユリアン様の恋人に見えているとしたら、ご迷惑じゃないかと……」
「何を言っている。迷惑だなどと思うくらいなら、こんな風に一緒に出掛けたりする訳が無いだろう」
ユリアンは肩を竦めたが、その表情は、優しく微笑んでいた。
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