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何もなければ、俺が日曜日の午前中から起きているわけがない。
椿から急に、しかも電話があったのは、まさにそんな時間帯で。
誰だよ、日曜の朝っぱらから。呼び出し音を鳴らし続けるそのしつこさに文句を言ってやろうかとスマートフォンを手に取り、画面を見て、飛び起きた。
「つ、ばき?」
「………悪い、急に。寝てたよな」
「かつてないほど寝覚めの良い朝を迎えたよ、今」変わり身の早さに自分でも呆れる。
でも、実際そう感じているのだからしょうがないだろう?
「おはよお、椿」
「もう十時になるけどな」電話越しでも、椿が軽く笑ったのがわかる。「まあ……おはよ、桃瀬」
「へへ。で、どしたのさ? 椿」
かつてないほど幸せな一日の始まりかもしれない。
そんな思いと共に、俺はベッドから身を起こした。
【桃瀬と椿のかつてない一日】
軽量カップに、秤、ふるい、綺麗にクッキングシートが敷かれた型に、天板。下準備を済ませたキッチンで、手際よく椿が手を動かす。
無塩バターと牛乳を溶かして、別のボウルでは卵と砂糖とを混ぜて、泡立てて、小麦粉を入れてまた混ぜて、既に温めてあったオーブンで生地を焼き始めればなんとも美味しそうな香りが鼻をかすめる。
俺の家のキッチンで、椿がケーキを焼いている。
「なあ、桃瀬。ところでおまえいつまでむくれてんだよ」
「むくれてませーん」
椿の父親宛てに、だ。
ダイニングテーブルに突っ伏しながら、俺は顔を上げることなく答えた。
今日は六月の第二日曜日。正直、父の日なんてすっかり忘れていた。
口では悪く言いつつも、なんだかんだ父親を慕っている椿のことだから、父の日に父のためにケーキを作る、というこの流れはごく自然なことと言えた。
あてが外れて、勝手に拗ねているのは俺の方。
椿は悪くない。父親に渡すケーキを自宅で作るのが憚られたから、調理器具の揃った、正確には椿のために揃えられていった俺の家でケーキを作ろうと思い立った。それだけの話であり、椿は全く悪くないのだ。
でも、椿から連絡が来たら、椿と会えると思ったら、どうしても期待してしまうのが性というものだろう。
何か作ってくれるのかなとか、俺に会いたいと思ってくれたのかなとか、そういうことを。
キッチンからは小気味いい音が響き、またも美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐる。それが一層、俺の落胆に拍車をかけていく。
こんな風に、ひとつの何かに心を奪われるなんてこと、今までなかったはずなのに。
「もーーー、椿のせいだよ」
「え、なんて?」明確に聞き取れなかったのか、椿がキッチンからひょこっと顔を出す。その角度も可愛いんだよ、ちくしょうめ。
「俺も椿のケーキ食べたい! ケンジさんばっかりずるい! って言ったのー」
ずるいって、何言ってんだよ、等の言葉が来るかと思ったが、椿からの返事はない。
困らせちゃったかな、と思いキッチンの方を見やると、当の椿はスポンジに生クリームをデコレーションしていた。パレットナイフを手に、実に真剣に。ああそう来ましたか。ああなった椿には、何を言っても意味が無い。
それならいっそ俺も仕事の一つや二つ片付けてしまおうか、とも思ったが、これまたいいのか悪いのか、昨日仕事を終えたばかりで喫緊のタスクがある訳でもない。
この際スマートフォンでも。しかしどこに置いたのか、少なくとも見える範囲に俺のスマホはない。
運にもことごとく見放された俺は、結局諦めて先程と同じようにテーブルに伏せた。こんないじけた態度は大人として如何なものかと思うが、それにも構ってられないくらいになっていた。こうなったら、一刻も早くケーキ作りが終わってくれと願うばかりだ。
そう、別にケーキなんてなくてもいいんだ。
ただ、椿にこっちを見てもらいたいだけ。
俺を見て、話して、構ってもらいたいだけ。子供みたいだなって自分でも思うけど。
ただ、それだけなんだ。
「……せ、桃瀬」
椿の声に、俺はふっと目を開けた。どうやら知らない間に眠っていたらしい。
「………俺、寝てた? 今って何時……?」
上体を起こし、目を擦りながら時計を見るが、いまいちピントの合ってない視界では針が読めない。
テーブルの脇に立つ椿は、エプロンを付けていなかった。
もうケーキ作りは終わったのかな。
「終わったの? つば」
「あの、………これ」
俺の言葉を遮って、椿が目の前に少し大きめのグラスを置いた。中には、白いプリンだろうか? そのような形状のものに果物が添えられている。葡萄と、綺麗に象られたオレンジと。
うちにはない形状のグラスだから、椿が家から持ってきたものだと言うことが伺える。
「え……なに、これ」
「見りゃわかるだろ」
わからないから聞いてるんだけどな、との思いは飲み込まれる。知りたいのは、菓子の名称ではないからだ。
見兼ねた椿が「パンナコッタだよ」と口にしたが、やはりよくわからなかった。
「………これ、俺に?」
「……他に誰がいるんだよ」
「え、だって今日は父の日だから、ケンジさんにケーキ作ってたんでしょ?」俺は関係ないじゃない、なんて傷を抉る言葉は思っただけで口には出さない。
「まあ、……そうなんだけど」
そこで椿が口篭る。
彼の歯切れが悪くなるのは、大抵自分の内面を晒す時だ。
俺が一番知りたい、椿の。
「………会えるなら、なんか作りたいとは思う、から」
「え………」
「でもさすがにケーキ二つは作れねえし、とにかく何かってなったから、有り合わせのものしか作れなかったけど。しかも昨日」
「つ……つばきぃ〜〜〜!!!」
耐えきれなくなって、俺は正面から椿を抱き締めていた。「うわっ」と声こそ聞こえたものの、腕の中の彼から抵抗される気配はない。
肩口に顔を埋めると、感覚の全てが椿で満たされる。息を目いっぱい吸って、ゆっくり吐いて。自分の中の汚い感情が、煙のように消えていくのがわかった。
「……桃瀬?」
「……椿には浄化作用でもあるのかなあ。観葉植物か、はたまたアロマか。もしくは空気清浄機?」
「は?」
「ま、冗談はさておき」本当は冗談のつもりでもないけど、一応そう前置きしてから俺は続ける。
「ごめん、せっかく椿が来てくれたのに、子供っぽいことでいつまでも拗ねて。椿は……俺のこと考えて、そんな風に思ってくれてたのにね」
「……ケーキじゃなくても?」
「椿が作ってくれるものなら、俺はなんでも嬉しい」
「………そっか」
そっと、でも確かに、椿の手が俺を抱き締め返してくれる。
それだけで俺は天にも昇りそうな気持ちになれるんだよ、椿。
それまでのことなんて、どうでもよくなるくらいに。
「いまいち何に拗ねてたのかよくわかんねーけど……ま、それならよかった。ほんとはこれ夕飯のデザートにしようと思ってたけど、まあおまえが食べたいなら今でも」
「え? 夕飯?」
それは聞き捨てならなくて、俺は思わず顔を上げていた。両手を椿の肩に置きながら、俺たちは向かい合う。
「え……ちょっと待って? 椿、今日俺ん家で夕飯食べるの?」
「おまえんち来れば大体そうじゃん」
「いやそれはそうだけど……え、だってケーキは?」
俺の家に、父の日のためのケーキを焼きに来た椿。
でも、俺の分のお菓子もちゃんと用意してくれてる椿。
そして夕飯は俺の家で食べるという椿。
俺は何が何だかわからなくなっていた。椿のスケジュールは何がどうなってるんだろう?
「え、せっかくケーキ作ったんなら渡すでしょ? 今日」
「確かに父親用で作ったけど、面と向かって渡す気なんてさらさらねえもん」
椿はどこまでもあっけらかんとしていた。さも当然、と言わんばかりだ。
「冷蔵庫に置いとくんだよ、ケーキは。んで『冷蔵庫見ろ』とかって書き置きして」
「思春期の親子ってそんなもん?」
「そんなもんだよ」
そもそも自分では高校生の頃に父の日に何かした思い出もないので、比較のしようもなかったのだけど。
「でも、いくら手渡さないように根回ししたって、ケンジさんケーキ見たら椿の部屋まで飛んでくるんじゃないの? 『おまえパパのこと大好きだなー』とか言って。で、結局一緒に食べることに」
「そこで、これだ」
椿が一枚の紙を取り出し、ぴらりと俺に向けて見せる。学校から配られるプリントのようなそれには、目を疑う事柄が印字されていた。
「………外泊許可証、……って、なにこれ」
「読んで字のごとく」
「え、これ……も、椿の手作り?」
「ケーキ焼いてる待ち時間におまえのパソコンでそれっぽく作って印刷した」
「いつの間に」
「で、これにおまえがサインする」
「えっ? 俺が? 待って待って、いろいろ追いつかない。え、これ、なんのために」
「行き先がわかってんならクソ親父は多分平気だし」
「泊まるってこと? 今日、俺の家に? 椿が???」
そこで椿は少し黙った。唇を引き結んで、少しばかり俯いて、たどたどしく、紡ぐ。
「まだおまえの夕飯作ってないし、……デザートもあるし、おまえの感想も……聞きたい、し」
「………」
こんな、自分で作った許可証なんぞにたいした意味も、効力もあるはずがない。
でも、そんなことはどうでもいい。
どうでも、いいのだ。
「貸して? それ」
「え、あ、はい」
椿からそれを受け取って、所定の箇所に署名する。かつてないほど綺麗な字で書けたんじゃないかとさえ、思う。
「これでいい?」
「………おう」
紙を手渡せば、気恥しそうに、だけど大事そうにそれを抱える。そんな椿ごと愛おしむように、俺は彼の額に唇を乗せた。続きはあとで、と言わんばかりに、軽やかに。
「はあ………もう、可愛い」
「? なんか言ったか?」
「ううん、こっちの話。さて、そうと決まれば椿の家に行こっか、ケーキ置きに。あれだね、そしたら明日月曜だし制服もいるね」
「学校の存在を忘れてた。サボっちゃだめか?」
「それはだめ。椿を非行に走らせたら俺ケンジさんからお𠮟りを受けちゃうからね。だから制服と、鞄と」
「その度に移動させるの面倒だよなー。おまえんちにもう一着制服置きてえってか早く高校卒業してえわ」
「はあ、もう! これ以上は可愛さ限界でしてよ、椿さん!」
「何の話だよってかなんだよ、その話し方」
俺が手で顔を覆っても、椿は全く意に介さない。はあ、もう。そういうとこだよ、椿。
手早く身支度を終え、椿が俺に車の鍵を差し出す。
「ほらよ」
これは、かつてないほど熱い夜の始まりかもしれない。
逸る気持ちをなんとか抑えながら、俺は椿から鍵を受け取った。
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