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ふと、研究所のインターホンが鳴った。大夢がここに来て以来、誰かの来訪なんて初めてだ。中川が応対のために部屋を出てゆく。大夢は一時の休息にほっと安堵した。
「おい。お前に客だ」
すぐに戻ってきた中川が言う。客? この時代に、知り合いなど居ないんだが。
ハテナを浮かべる大夢に中川は「10分以内に終わらせろ」と言った。追い返しはしなかったようだが、表情には苛立ちが滲んでいる。
来客とはなんと、あのメロンパンの少年だった。
研究所入り口に立つ少年の姿を見て驚く大夢に、彼は大夢の時代のそれより細型の腕時計らしき物やら、錆びているが見たことのない素材の貴金属やらを差し出す。
「これは?」
「……この前、パンを貰ったから。あの時は無理やり盗っちゃったけど、家に帰った後、妙に胸がムズムズして落ち着かなくて。それで対価を渡しに」
なるほど。対価なんて言っているが、つまりはお礼だ。
こっちに来て以来初めての温かい気持ちになった。大夢は少年の頭にそっと手を乗せる。
「気持ちは嬉しいけど、別に対価が欲しくてやったわけじゃないんだ。こういう時は対価じゃなくて一言、◆∀∈+@って……え?」
確かに口にしたはずのその言葉は、発音すら不明瞭な音の塊となって少年との間に落ちた。一瞬の間を置いて、横から中川に凄い勢いで肩を掴まれる。
「おい、もう一回今の言ってみろ」
「◆∀∈+@、い、言えない! もしかして、これが言化けなのか?」
「何て言ったんだ? 意味を教えてくれ」
「◆∀∈+@は、か=◎ゃの気持ちを…… お☆√をする時に……ダメだ、説明に使う単語も言えない」
『感謝』と『お礼』も、その言葉ほどではないが、聞き取り困難な程度には化けてしまう。関連する用語も言化けすると言っていたが、本当らしい。
同時に、言化けによって失われたものが『感謝の言葉』であったことを大夢は悟った。
困惑した様子の少年を家に帰した後、様々な方法でそれを中川に伝えようと試みた。表現を遠回しにしたり、紙に書いたり、PCに打ち込んだり。
しかしどれもダメだった。やっとその言葉の正体を突き止めたというのに、結局、言化けという根本の問題が立ち塞がる。中川がクソッと乱暴に吐き捨てた。
少しの沈黙の後、大夢はあっと声を上げた。
「一つ作戦を思いついたんだが、試してもいいか?」
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