プロローグ

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 喉がカラカラで、干からびそうで、腹が減って仕方がない。  八月の熱帯夜。  スズは弱り切って本来の姿も保てぬまま、今にも倒れそうな足取りで住宅街をさまよっていた。 「あ、猫ちゃん!」  習いごとの帰りだろうか、母親に手を引かれていた少女が、スズの姿に気づいてしゃがみ込んできた。スズはすかさず少女の足元にすり寄る。 《お腹すいて倒れそうなの……助けて》 「かわいい! ねえお母さん、猫ちゃんがにゃあにゃあ言ってる! うちに連れて帰ろうよ」 「汚いから触らないの!」  母親は猛烈な勢いで少女の手を引いて、こちらをほとんど見ずに去っていった。スズは遠ざかる親子の背中を、ただ悲しい瞳で見つめているしかない。 (本当のオレは猫獣人なの……って、こっちの言葉なんか、通じるわけないよね)  スズは今でこそ猫の姿でいるものの、獣人姿の時はアッシュグレーの髪に、青い瞳を持っている。頭上にはちょこんと猫耳があり、股には尻尾も生えていた。  普段はそうやって人間に近い姿でいるのだけれど、今はあまりにお腹が空きすぎて猫の姿にしかなれないのだ。  そういう時はたいてい、野良猫と間違えた大人に腹を蹴られたり、箒で追い払われたりとひどい扱いを受ける。今だって、少女の母親に言われた言葉が、スズの胸に刺さってズキンと痛かった。 (オレってやっぱり……汚いんだ)  早く獣人の姿に戻らないと厄介なことになってしまう。だがこの調子では、しばらく野良猫同然の生活をするしかなさそうだ。  スズはすっかり意気消沈して、住宅街をとぼとぼ歩いた。  駐車中の車を潜り抜けると、一面ガラス張りの戸の向こうから、煌々した灯りが目に飛び込んできた。どうやら小さなスタジオの前に出たようだ。屋内では一人の男が、仕事用らしき椅子に座って熱心に何かの作業をしている。  男は若い人間だ。  艶のある黒髪が腰まで伸びていて、髪と同じ色の凛とした瞳が黄金比のバランスを保っている。横顔から首にかけての輪郭は、喉仏の形に沿って隆起していた。 (綺麗な人……)  スズは男の姿を見た時だけ、ひもじさも惨めさも忘れてしまった。  だが見惚れた一瞬後には、倒れそうな今の境遇を思い出した。スズは扉を引っ掻いて、助けて、助けて、と声を上げる。  物音に気づいた男が顔を上げ、こちらに近づいてきた。ガラス戸がさっと開かれる。 《あ……》  こうして眼前に近づかれて初めて、男の異様な背の高さが目についた。おそらく百八十センチをゆうに超えていると思われる。  だが体格はモデル並みに細くしなやかで、美脚だ。  男の美しさに当てられたスズは萎縮して尻尾を丸めた。頭上から睥睨してくる瞳がギラリと光り、威圧感が尋常ではない。 (こ、怖い! もしかして『邪魔だ』って蹴られちゃう……!?)  男は鼻から大きく息を吸うと「はぁあ」と盛大なため息をついた。 《ひっ!》 「なんてかわいい猫ちゃんだ? ん? どうしたおまえ?」 《……えっ!?》  スズの予想を大きく裏切って、男は甘くふにゃふにゃした声とともにその場にしゃがみ、手をそろり差し出してきた。 「あぁ、かわいいな。どこのどいつだ。ほら、おいで」  みだりに触れてこない相手の慎重な手つきと猫なで声に、スズは警戒を少しだけ緩めた。男の指先につっ、と鼻をこすりつける。  汚い自分が触れても、男は微笑んだままいやな顔一つしない。それどころか愛おしそうな、慈しみの視線を注いでくれた。  こんなに優しい瞳で見つめられたのは、いつ以来だろう。 「迷子か? こんなにガリガリになっちまって」 《お腹すいてるの。助けて》 「部屋の中においで。……あ、ちょっと待ってな」  男は一度ガラス戸の向こう側に消え、ほどなくして白い皿を持って戻ってきた。床にコトンと置かれた皿の上には、茶色い固形物がある。 《あ、カリカリ!》 「ちょっと前に保護猫を預かったことがあったから。未開封の餌が残っていたんだ」 《うそ、オレの言葉がわかるの!?》 「本当はもっとうまいもん食わしてやりたいけど、カリカリしかなくてごめんな。あぁ……かわいいうえに、綺麗な毛の色だ。頬擦りしたら逃げられるかな。だよなぁ。いきなりはなぁ」  スズは男の言葉そっちのけでカリカリに食らいついた。たとえそれが猫の餌で、自分にとっては貰っても嬉しいどころか屈辱的なご飯だとしても、今だけは極上のご馳走のように思えて涙が出そうになる。 《おいしい……すっごくおいしいよ!》 「んん、そうかそうか。それにしても、灰色猫は野良では珍しい。もしかして……捨てられたのか? いっそうちの子になるか? ん?」  男が今度は、スズの背に手を伸ばしてきた。スズは人間たちから殴られたり蹴られたりした記憶が蘇り、びくりと縮こまる。 《やだっ……!》 「あ」  スズは外へ逃げ出した。  だがその一瞬後には、とっさの行動を後悔していた。見ず知らずの薄汚い自分に手を差し伸べて、ご飯までくれた人が、乱暴なんかするはずないのに。 (しかも、言葉通じてたよね? オレのことを獣人だってわかってくれた? わかってて『かわいい』って言ってくれたり、親切にしてくれたりしたのかな……)  あんなに優しくて美しい人には、今まで会ったことがない。男の人だけれど、スズには彼が女神のように思えた。  もし愛されるなら、あんな人がいい。 (でも……薄汚れてガリガリなオレのことなんて、愛してくれるわけないよね。オレがもっと綺麗だったらなぁ……)  スズは叶わぬ未来を想像して、胸の中が苦しさでいっぱいになった。
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